序節



 天暦三年、弥生。
 開け放たれた庭戸から西日が射し、八畳あまりの部屋を隅々まで照らしていた。
 その部屋のほぼ中央に、初老の男が座している。
 その男は複雑な面持ちで、この館の主が来るのを待っていた。
 これから来る男に、告げなければならないことを想うと、鬱々とした気分になる。
 縁側から僅かに足音が聞こえた。
 彼は庭に目をやる。
 庭には見事に花を咲かせた、梅の木が西日を受けて立っているのが見えた。
 まだ、その主の姿は見えぬが、徐々に音が近付くのがわかる。
 彼は手元にある、差し出された湯飲みを持ち、中の白湯を少し口に含むと、咽喉を鳴らし飲み下した。
 湯飲みの中には、塩漬けの梅の花がゆったりとその花弁を広げている。
 幾分か気持ちは紛れたが、晴れたわけでは無い。
 ふう、と一息吐き、湯飲みを受け皿に戻したその時である。
 足音がいっそう大きくなり「お待たせした」と言う声と共に、件の主が現れた。
 彼の背筋が、急激に引き締まる。
 悠々とした足つきで彼の前に座るその男は、整えられた口髭と、顎髭をたくわえた中年男性で、すっと伸びた背が、その姿をより高く見せ、肩幅が広く見える束帯姿ということもあり、その身体からは尊厳たる空気が出ていた。
「して、本日はいかがな用か?」
 その男は悠然とした声でそう、彼に尋ねた。
「はあ、本日千方様をお伺いしたのは他でもありません。かねてより、千方様は御君に、その、正二位の位を頂きたいと、進言なされましたことについてでありまして」
 そう話す男の言葉は歯切れが悪く、明らかに言葉を躊躇している。
 だがしかし、いかに躊躇し、言葉を選ぼうとも、この責務を負っている以上、その決定的な言葉を、この男―――――藤原千方に告げねばならないことに変わりは無い。
彼は咽喉を鳴らして、生唾を飲み込むと、意を決したような面持ちで言葉を続けた。
「その、千方様にはまだ期が早いとのことでありまして…」
 そう顔を伏せながら話す、男の言葉に、千方は微笑を崩し、ふっとその表情を変える。
 その雰囲気を感じ取ったように、男の額には脂汗が噴出す。
「いや、千方様の力を疑う余地はありません、が、ありませんが、ただその元老方が言うにはまだ若すぎると。ここは時を待ち、また、あらためて進言を…」
 気圧されたように、そう一気に喋る男に、千方はただ眉一つ動かさず、「やはりな…」と呟いた。
 その声に、男の顔は蒼褪め、血の気が引くのがわかる。
 ひいっと強張った声を発てて、男は息を飲み、立ちあがろうと身を捩ったその時、「許せ」という千方の小さな声が聞こえた。
 その声と共に、見えない何かが男の眼前をフッと過ぎ去る。
 その瞬間、小さな硬い落下音と共に、大皿ほどある男のそれは床に落ち、紅を辺りに広げた。
 千方はその光景を、ただ冷淡に見つめると、すっくと立ちあがり、胸元から短冊を一つ取り出し、「隠形鬼、その首にこれを付け、宮に置いてこい」そう誰もいない虚空に言う。
 すると、千方の目の前に、浮き上がるように髑髏の仮面を付けた男が突如現われ、無言のままその短冊を受け取り、再び虚空へとその姿を消した。
 千方はそれを見送ると、部屋を後にする。
 後には何かを欠いた、男の躰が横たわるだけだった。

 
 一月ほど後、朝廷の使いである老仕官の首を刎ね、あまつさえその首を内裏に置くという暴挙をした藤原千方に、都からの追放が科せられることとなる。
 だが、この厳罰を命ずる際、藤原千方はその姿を現すことはなかった。
 これに異例の命が下る。
 それは、この千方の不遜な態度に、朝廷が兵を出し、強制的に退去させることであった。
 だがしかし、兵を出して厳罰に従わない者、従う意思を見せない者を強制的に追い立てるのは珍しいことではない。   
では、何が異例なのかというと、この兵の指揮に、皇を守護する近衛七士の一つ、燎家を用いたことにあった。
 本来ならば近衛七士は皇を守るためだけに存在し、そして皇が唯一、己が意思で動かすことが出来る私兵でもある。
 つまり、これを用いるということは、皇自らが手を下すことを意味するのだ。
 この異例の采配には二つの理由があった。
 一つは、首と共に置かれた歌にある。
『天のぞみ 叶わぬと知る 我一つ 成り果てやうと 覇道を行かむ』(天(皇)に自らの望みが叶わぬと知り、然らば自らが皇となろう、たとえ自分一人になろうとも)
 そう歌われた歌は、明らかに皇への謀反であり、朝廷への宣戦布告に他ならない。
 そしてもう一つ。
 これこそが、皇に燎家の出兵を決意させた理由に他ならない。
 それはこの首を、厳しい警備を誇るはずの内裏内に置かれたという事実である。
 しかも、誰か内通者がいたというような、わかりやすい理由ではなく、突如としてその首は皇の前に置かれたのだ。
わずか数瞬、視線を逸らした時、そのあるかなしかの間にその首は置かれていた。
 最も近くにいた者でも、簾を境に一間余りも離れている状況であり、わずかな間にそれを置くことなど為しえ難いのは明確である。
 これに恐怖を感じた皇は、確実に藤原千方を追放する為、燎家を動かすのであった。

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