壱節


 
 僕達はいつも二人だけだった。
 武家の家だからか、それとも特別なのか。
 嫡男に目をかける父は、次男である僕や妹には、目を向けることはなかったと思う。
 特に妹のサヤが生まれ、それに代わるように母が亡くなってからは、特に顕著であったように感じる。
 それでも、僕には男子であるおかげで、剣技など少しは見ていてくれていた。
 だが、妹は、サヤは…。
 だから僕等は、いつも二人だけだった。


 天徳元年、神無月、比良山。
 燃え盛る真紅の焔という巨大な獣は、荒れ狂うその爪で、闇夜を切り裂いた。 
うねりあげる様な、その咆哮は遥かまで響きわたるようだ。
 さしずめ、その獣の腹に収められた形となる山寺は、今にも崩れ落ちそうである。
 その山寺の目の前では、一人の少女が泣きながら、声にならない叫びを上げていた。
 ともすれば、その火中にも飛び込みそうな貌を見せる少女を、その娘よりもやや年上の少女が抱くようにして、その動きを制止している。 
 そこへ壮年の男性が、焔と彼女等の間に割ってはいり、「落ちつき下さいませ、サヤ様」そう言いながら、目線をその泣く少女―――――燎サヤに合わせるように膝を着いた。
「でも、兄さま達がまだ中に!」
 声を上擦らせてそう壮年の男―――――白塚奈嘉背に訴える。
 サヤの言葉に奈嘉背は、「それならば、私が行きましょう」と言い、すっと立ち上がった。
 その言葉にサヤを抱いていた少女が「しかし、父上!」と叫び、サヤを抱く腕を解く。
 彼女―――――白塚雪奈の訴えるような声に、奈嘉背は微笑しながら「雪奈、サヤ様を頼むぞ」そう言って踵を返した。
「必ず珪次郎様達を連れてまいります!!」
 そう叫びながら奈嘉背は火中へと入っていった。


 まだ十五、六歳くらいであろう少年が、苦悶の顔を見せながら、眼前に積みあがった木片、いやもう木材と言ってもいいだろう、それを動かそうとしている。
 だが、彼の身体に対して、それはあまりに大きく、とても動くものではないのは明らかであった。
 それでもなお、彼は明らめようとはしない。
 爪が割れ、ささくれが容赦なくその指を刺しても、いっこうにその手を離すことなかった。
 痛みに顔が歪む。
「も、もう宜しいです、珪次郎様」
 そんな彼―――――燎珪次郎をいたわる静止の声が、彼のすぐ股下から聞こえた。
 そこには、木片に埋もれながらも、何とか顔だけを覗かせている初老の男性がいた。
 剃髪した頭に四角い輪郭、口周りにびっしりと生やした髭がいかにも剛健然としていて、厳つい印象を与えるが、その表情は血の気が無く、まさに息も絶え絶えといった状態である。
 その表情には最早、厳つさは伺えなかった。
 木片は天井の梁の一部で、それほど高くはないとはいっても、相応の高さから落下してきたものが、この初老の男の上に容赦なく積み重なっていることになる。
 意識がはっきりしているようであるので、幸いにも命には別状はないであろうが、その木材の下にある身体が、どのようになっているか想像するのは難くはないであろう。
「だけど、だけど、蒼朔殿どの」
 上擦りながら珪次郎は初老の男―――――蒼朔僧正の静止に抗う声を上げた。
 だが、それはただ、珪次郎の意地であり、我が侭に他ならない。
 しかも、二人に残された時間は僅かだ。
 彼等の頭上を見れば、朱色の焔が生々しく蠢き、激しく渦を巻いているのが見える。
 その焔は、二人の上に火の粉を舞い落とし、辺りに火ノ芽を萌えさせていた。
 床までこの焔に染まるのは、そう遅くはないであろう。
 たとえ、この木片を珪次郎が退け終わって、奇跡的に蒼朔僧正が動けたとしても、焔に巻かれるのは目に見えている。
 それでも、珪次郎は諦める意思は微塵も見せなかった。
 と言うよりも、必死さ故に、周りを囲みだした焔すら目に入らぬという感じだ。
蒼朔僧正はそんな珪次郎を仰ぎ見て、最早観念したようだった。
 しかしそれは、自らの死や、珪次郎共々このまま焼け死ぬことではない。
 死ぬ覚悟などとうに出来ている、というか蒼朔は、いつ死んでも良いような生き方をしていたと自負している。

 そもそも蒼朔は蒼太郎という下級武士であり、幾多の戦で殺生を繰り返してきた者であった。
 それでも武器を手に、互いに死力を尽くす戦では、後ろめたさなど微塵も感じはしない。
だが、それはあくまで普通の戦であった場合である。
 蒼朔が最後に戦ったのは二十年以上も前にあった、あの平将門の乱であった。
 親王と称して朝廷に抗った将門は、わずかの家臣と平民達で挙兵し、戦をしたのである。
 これは、堂々と名乗りあい、武器もしくは鎧羅を用いて、対面で互いの命を掛けあう、それまでの戦とは大きく外れていた。
 ほぼ平民達で組織された将門軍は、当然、兵の持つ武器の多くは農具で、鎧羅など数えるまでもないほどであり、兵のほとんどが防具もないような素っぱのままの農民達である。    
 蒼朔はそれを、鎧羅を用いて容赦なく屠り、鏖殺したのだ。
 この時、武人として生きてきた蒼朔の誇りは瓦解した。
 このことを機に、蒼朔は蒼太郎から蒼朔となり、仏道へと入ったのである。
 だが、約二十年を経て、深い身分の隔たりがあってもなお、武人として友愛を示した燎謳珪の子、珪次郎とサヤの二人を育て上げる機会を得た。
 ただ仏道に帰依し、心も全て消え行くだけだった蒼朔は、これにより再び誇りを得たのだ。
 
 蒼朔は、死ぬのは辛くはなかった。 
 だが、託され自ら育てた、珪次郎が共に死にいくのが辛かったのだ。
 いや、それ以上に、謳珪との約束を果たせないことの方が、辛かったのである。
「け、珪次郎様、お聞きください!」
 蒼朔は精一杯、今張れるだけの声を張ってそう言った。
 ―――伝えなければならぬ。
 ―――お父上、謳珪様との約束を!
 そう思い、蒼朔が大きく口を開いた瞬間であった。
 戸口を破り、背の高い男が入ってきたのは。

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