「お返事くださいませ珪次郎様、蒼朔殿!」
 白塚奈嘉背は大きく叫びながら、火に包まれる堂内に入った。
 本堂は中央にある、本尊横の木戸を仕切りに、そのまま庵へと繋がっていて、そこにその二人、珪次郎と蒼朔は居る筈である。
 本堂はすでに火の海で、その奥にある、庵まで行くのも難しい。
 だが、火に占拠されたこの本堂よりも、この先にいるだろう二人―――――珪次郎と蒼朔にはまだ、”望みがある”と思えた。
 だが、奈嘉背はそれでも、叫ばずにはおられなかったのだ。
 奈嘉背は大股で本堂の床を走り、火と煙に捲かれながらも、庵へと続く木戸の前に立った。
 奈嘉背の額はほぼその木戸の鴨居―――というほど立派ではないが―――ほどで、木戸そのものは奈嘉背の体躯にはかなり小さい。
 奈嘉背はその鴨居に手をかけ、勢い良くつま先で木戸を蹴り破った。
 本堂の膨張した空気が、一気に庵になだれ込み、蹴り飛ばされた木戸は床に落下して、辺りに木端を散らばす。
 奈嘉背はそれとほぼ同時に庵に駆け入ると、積み重なった材木の前で少年が立っているのが見えた。
「珪次郎様!」
 奈嘉背はその少年、燎珪次郎の名を叫んだ。


 珪次郎は必死であった。
 目の前には大きな木片が積まれ、その下には自らの育ての親、蒼朔僧正が下敷きになっている。
 いや、最早珪次郎にとっては、実父、燎謳珪よりもはるかに父親らしく、かけがえのない存在となっていたのだ。
 そもそも、珪次郎にとって、本当に親身になって向き合ってくれたのは実父ではなく、この蒼朔僧正という人間が初めてであった。
 だからであろう、自らの痛みも省みず、無理だと解っていながらも助けようと思ったのは。
 いや、そんなことは思ってもいないだろう、珪次郎にとってこの行動は感情の発露いや、もっと直情的なそう、”衝動”そのものだった。
 蒼朔僧正は僅かに覗いた隙間から、眼前の珪次郎に静止の声をかける。
 だが意に返さず、珪次郎は手を止めることはない。
 その時、珪次郎本人もわからないが、何かを言った気がする。
 たぶん、拒否の意思だと思われる。
 珪次郎はやっと、掴んでいた木片を退かすことが出来た。
 また蒼朔僧正が何か言う。
 だが珪次郎には届かない。
 珪次郎にはもう思考はない、ただなんとしても、蒼朔僧正の上に積み重なった、木片を退かすこと意外に思惟はなかった。
 いや、ただひとつだけ思っていたことがあるそれは、”力”。
 ―――もっと僕に力があれば。
 ―――こんな木など物ともしない力が。
 ―――こんな焔など意に介さない力が。
 ―――欲しい!
 涙が溢れる。
 自らの非力さに苛立っているのか、それとも状況に絶望しているのか、今の珪次郎にとっては判じかねる。
 ただ、力を切望していた。
 その時である。
この庵と本堂を隔てている木戸が、珪次郎の脇に倒れて来たのは。
 木戸の木端が、辺りに散らばった。


「珪次郎様!」
 奈嘉背は叫びながら、珪次郎のもとに走りよる。
 庵に入った時には気付かなかったが、珪次郎の足元―――――木片の下に蒼朔の顔が見えた。
 その蒼朔の顔には最早血の気が無く、土気色に変わっており唇は青ざめている。
 もうこれだけでも、木片の下にある蒼朔の身体がどうなっているのか、容易に想像がついた。
 だがその蒼朔は、下敷きになったその身体では最早、叫ぼうとも声にならないのだが、それでも渾身の力で何かを叫んでいる。
 酷くか細いが、それは「珪次郎様、お聞きください」そう聞こえた。
 しかし、当の珪次郎にその声は届いておらぬようで、最早、目の前の木片を退かすこと以外、珪次郎には無いようである。
 そんな二人には、奈嘉背の存在など気付いていないようであった。
 もっとも、蒼朔の目はすでに見えていないようであったが。
 兎にも角にも、奈嘉背は二人を止めるべく、膝を着き珪次郎の背に合わせるとその肩を掴み、強引に自分に向かせた。
 そして、「珪次郎様!」そう渾身の声で叫び呼んだ。
 珪次郎の瞳に奈嘉背の像が写り、「奈嘉背殿」と震えた声で、ようやく奈嘉背を認識した。
 足元の蒼朔も、声は出ていないが動いた口から、おそらく同じように奈嘉背の名を呼び、その存在に気付いたようだ。
「うう、ああ、そ、蒼朔殿がここの」
 そう、言葉にならない声で、蒼朔のことをうったえる珪次郎に奈嘉背は、「解り申しております、だが、今は早々にお逃げください!」そう言いながら、積み重なった木片の向こう、裏口へと出る木戸を指差した。
 奈嘉背は蒼朔を見つけた時に決めた、蒼朔を助けることは出来ないということを。
 木片を退かし、蒼朔を助け出すことは、珪次郎の今の力では無理だが、自分が加勢すれば可能であろう。
 だが最早、その時間は無かった。  
すでにこの庵の床も、火に囲まれ始めている。
 唯一、火の元に一番遠い、裏口の周辺がまだ火が少ないだけで、最早珪次郎らの周りを残し、火の無いところなどありはしなかった。
 故に、助けたところで動けるかどうかも怪しい蒼朔は見限り、主である珪次郎を助けようと外へと促すのは、奈嘉背にとって至極当然の判断であろう。
 だが、もちろん割り切れないところもある。
 珪次郎の行動から解る、その思いを感じれば尚のことだ。
 しかし、自らと同じく、かつては武人であった蒼朔も、それを望んでいることは明白であった。
 だが、珪次郎本人は、「だけど、だけど蒼朔殿が」そう言ってきかない。
「なれば、私が蒼朔殿を何とかいたしましょう、ですから!」
 珪次郎の言葉にそう強い声で答えるも、珪次郎にはまだ届いていなようである。
 奈嘉背は悩んだが、すぐにあることを思い付いた。
 ―――蒼朔殿よりも大切なものをあげればいいのでは?と
「蒼朔殿は私が何とかいたしましょう、珪次郎様はサヤ様が身を案じておられます。どうか、お早く外にお逃げください!」
 そう叫んでみた。
 その言葉に、びくりと珪次郎は肩をすくめ、「サヤ」そう小さく呟く。
 珪次郎は蒼朔の顔を一瞥すると、「…本当に任せて良いんですね?」そう小さな声で言った。
 奈嘉背はそれに無言で頷き、珪次郎の肩から手を離す。
 すると、珪次郎は離されると同時に、木片を飛び越えるように翔け出した。
 一目散に裏口へと向かう。
 そして、木戸を身体で突き破り、飛び発つように外へと転がり出た。
 奈嘉背はその姿を見送ると、今度は膝を着いたまま向きを蒼朔の方へと変え、すらりと腰に挿した刀を、鞘から引き抜く。
 そうして、手にした刀を逆手に持ち替え、刃を蒼朔の額に向けて、
「…奈嘉背殿、お伝えしたいことがございます」
 まさに今、刀を突き刺さんとした時であった、奈嘉背が僅かな声でそううったえる、蒼朔に気付いたのは。
 奈嘉背は驚きながらも、一旦手にした刀を床に突き立て、蒼朔に向かい「解った聞こう」そう強く言い、顔を近づけた。
 蒼朔は引きつったように、精一杯の笑みを見せると、僅かな声で言った、「お話しすることは、火具土の在りし場所であります」と。

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