珪次郎はそれを見上げていた。
 傍らには、ぺたりと腰を抜かしたようにサヤが座り、呆然としてる。
 それは二体の、黒々とした鎧羅であった。
 その鎧羅は二人に黒い影を落とし、傲然と見下ろしている。
 黒々とした躯、不気味に巨大な双眸、その奥に光る紅点。
 耳の後ろで、どくどくと己の血液が激しく流れる音が響く。
 その黒々とした鎧羅は、右腕をゆるりと上げた。
 その動きに呼応するように、珪次郎はサヤの上に覆いかぶさる。
ぐっと歯を喰いしばり、珪次郎はその攻撃を覚悟した。
 しかし、そう身をもって護ったところで、どうなるわけでもない。
 鎧羅の一撃の前に、珪次郎の躰など、なんの障害にもならない。
 だが、予想外にもそれはまったく訪れず、ただ音が、鎧羅独特の重い金属同士を擦るような音が頭上で響くだけである。
 そして、暫くするとその音に加えて、地響きと砂利道を歩くような、もしくは金属で土を擦るような音が響き、やがて土埃―――尤も埃というよりも、ほぼ塊であるが―――と共に激しい金属同士の衝突音が響いた。
 珪次郎はその音に顔を上げる。
 見上げれば、頭上には獣のような鎧羅―――――白狼が、その黒々とした鎧羅が放った腕を絡め獲り、ぎしぎしと音を発てながら互いに膠着していた。
 思わずその姿に凝眸してしまった珪次郎に、奈嘉背が取りつき、珪次郎の名を強く呼びながらその腕を掴んだ。
 そして奈嘉背は珪次郎達を、ここから離そうとその腕を強く引き「お二人ともお立ちください!」そう叫ぶ。
 その時である、白狼がまるで草を抜くかのごとく、その黒々とした鎧羅の腕を引き上げた。
 黒々とした鎧羅は簡単に宙を飛ぶ。
 白狼はその刹那、右腕を左腰に携えた太刀へとのばし、その顔を珪次郎達に向けた。
 互いの視線が合致する。
 そして、互いに硬直した。
傍らではまだ奈嘉背が叫んでいる。
 だが、その声は、珪次郎にとってもう遥か遠くに聞こえた。
 地響きが数度珪次郎の躰を揺らすと、影が凡てに均しく落ちる。
 そして、珪次郎達は闇に没した。
 
 気が付くと、酷く薄暗かった。  
 珪次郎は、はたと天を見上げる。
 だがそこにあったのは空ではなく、薄暗い石壁と梁が支える石天井であった。
 珪次郎は酷く吃驚し、思わず立ち上がる。
 そのままぐるりと躰をまわし、更に辺りを仰ぎ見た。
 踵を返す。
 その時やっと空が見えたが、それは切り取ったように天井に穿たれた穴から覗いていた。
 日はまだ高く、それほど時間は経ってはいない。
 視線を下げる。
 そこには瓦礫と土塊、それに鎧羅の腕や脚が山となったそれらから覗き、極めつけには逆さまになった大きな狼の顔―――――白狼が仰向けに横たわっていた。
 これはおそらく、白狼の上にあの黒々とした鎧羅が落ちてくることで、地下にあったと思われるこの石洞のような空間に、地面―――石洞の天井―――を破って皆一緒くたに落ちたのだろう。
 それはもう一体の、黒々とした鎧羅も同じで、あの地響きはその鎧羅が駆け寄る音であったのだ。
 そしてそれは、その瓦礫や土塊から除く手足が一体では、余りに多いことが証明している。
 珪次郎はその考えに至るとはっとし、狼狽したように再び辺りを見渡した。
 ―――サヤ、
 ―――サヤはどこだ!?
 そう、あの時地面が抜けて皆落ちたのならば、サヤも落ちたはずだ。
 珪次郎は酷く狼狽する。
 だが、その狼狽は長くは続かず、サヤは踵を返した―――最初に気が付いた向きの―――足元にいた。
 未だ昏倒しているのか、ぴくりとも動かない。
 珪次郎は膝を着くと、恐る恐るその頬に手を伸ばした。
 幽かに吐息と体温を感じ、珪次郎は胸を撫で下ろす。
 そこで珪次郎は、自らの目の前にあるものにやっと気が付いた。
 珪次郎はそれに、ゾクリと震えを覚える。
 それは、おどろ髪で項垂れたように座する、巨大なヒトガタであった。
 その全身に、この薄暗がりでもはっきりと判るほどに土埃に塗れたそれは、両腕を弛緩させた様に垂らし、上体は項垂れ、脚は膝を立てた胡坐のような中途半端な容で座している。
 そして、その全身には錆び付いた鎖が雁字搦めになるように、縦横無尽に走っていた。      
 珪次郎はサヤを抱かかえると、惚けたような貌でそれに近付く。
 近付くとそれは、少し高い段になった石畳の上に載っているのに気が付いた。
 その石畳にはそれを縛り付けていた鎖が、四方八方に鋲されている。
 珪次郎は更に近付き、足元まで来るとそれを脛からすうと見上げた。
 土埃が付着したその表面は、よく見れば藍色の上に紅色で、なにやら揺らいだ模様が派手に塗られている。
 腹部は鉛色の蛇腹で出来ており、その上には同じく藍色の上に紅で書かれた模様を持つ胸板、そしておどろ髪を垂らした顔が見えた。
 その顔は僅かに凹凸のある真っ白で顎の細い面のようで、両目にあたる部分に亀裂の様に鋭く紅い双眸あり、その額には、乱れた髪から金色とも黄土色ともつかぬ、不可思議な色をした鶏冠が頭頂まで走っているのが覗いている。
 珪次郎はその顔に、総身が粟立つのと同時に、得も謂われぬ昂揚感を感じた。
 その時である。
 惚けたようにそれの顔を凝眸していた珪次郎は、背後の音に吃驚して踵を返した。
 そこには、あの黒々とした二体の鎧羅が、瓦礫と土塊の裡から這い出さんとしていたのだ。
 珪次郎は一瞬その姿に狼狽するが、すぐさまその貌を戻して、くるりと振り返った。
 そして、先ほどからずっと、否、何年、何十年とそこに佇んでいるそれを、珪次郎は再び見上げる。
 心音が、弾けるように心音が鳴った。
 未だ意識の無いサヤを、その足元に寝かせると、珪次郎は駆けた、その腹部に向かって。
 そしてその腹部の蛇腹に手をかけると、力を込めて上に持ち上げた。
 すると、それは難なく持ち上がり、その暗い腹腔を珪次郎に晒す。
 珪次郎は踵を返し、サヤを再び抱えるとその腹腔裡に、鎖を避けながら自らもろとも裡へと入った。
 そして脚を胡坐に組み、その上にサヤを乗せ、背後や上部に下がる紐―――――手繰り糸を指先から肘、肩に捲きつけ、最後に眼前に下がった面を被る。
 覗き穴も何も無いその面を被ると、同時に己の前方で薄い鉄が擦れる音がし、最後に鉄を叩き合わせるような甲高い音が響き、それを合図にする様に、珪次郎の視界が閃らいた。
 その視界は普段より高い場所から、珪次郎にそれの足元にある石畳を見せる。
 それには石洞内の薄暗さを感じない明瞭さがあった。
 首を前に向ける。
 既に二体の鎧羅は土塊から抜け出ており、呆然と珪次郎を見ていた。
 珪次郎は、己等が裡に乗るそれを立たせようとし、指先を動かす。
 否。
 動かそうとした。
 しかし、動かない。
 おそらく、これの全身に捲かれた鎖が邪魔をしているのだろう。
 珪次郎は力を込めた。
 すると、鎖が弾ける音がこの腹腔裡に響き、躰中を震わす。
 視界が昇ってゆく。
 珪次郎は何故か、より高揚していた。
 いや、頭は酷く冷めてる気がている。
 ただ、躰、否、心が、
 高鳴っていた。
 黒々とした鎧羅が見える。
 珪次郎はそれを改めて見て、酷く滑稽に、いやもう馬鹿馬鹿しいように見えた。
 その巫山戯た姿に苦笑し、その鎧羅達に己が乗るそれを見せつけるよう、背を伸ばさせた。
 巫山戯た鎧羅はややた怯んだ様に上体を下げると、左腰に挿した自らの太刀を抜く。
 そして、腕を伸ばした。
 重い金属同士が擦れる音が響き、その鎧羅が放ったそれが迫ってくる。
 しかし、珪次郎は落ち着き払ってそれを僅かに躰をずらして避けた。
 その時、もう一体の鎧羅がその身を少し捻って、違う方向から腕を伸ばす。
 だが、それすらも僅かな動きで避ける。
 最早、珪次郎には己がそれを”操っている感覚”は無い。
 既に、それは己の一部となり、己が思惟の下に動き、己が躰となんら変わらない新たな躯と成っていた。
 だが、珪次郎は気付かぬ。
 ただ、高揚感が珪次郎の躰を突いていた。
 背後でその鎧羅の掌が、壁を突いたどおんと言う音が響く。
 珪次郎は腕を放ったまま、放心しているその鎧羅等を睨めけた。
 二体の鎧羅は腕を元に戻すと、じりじりと互いの間を詰めて、両腕を上げる。
 今度は両腕、しかも同時に攻撃しようとしているのだろう。
 珪次郎は笑んだ。
 その刹那、珪次郎の視界が光に包まれ没し、次の瞬間には、その二体の鎧羅は脚腰だけを残し綺麗に消えていた。
 その背後に紅く穿たれた、丸い穴が見える。
 珪次郎はその光景に、怡悦にも似た高揚感を感じた。
 その姿を、サヤが仰ぎ見ていたのも気付かず。

          *         *         *

 珪次郎を得、火具土は覚醒めた。
 そして、一年の歳月が過ぎ、舞台は伊賀へ…。

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