弐節
兄さまはわたくしの凡て。
兄さまがいなくては生きてはいけない。
兄さま、
兄さま、
お慕い申しております。
けれども、血の繋がりし兄妹なれば、添い睦む事は叶わない。
しかし、奈嘉背様に教わった、神話の国産みの神、伊弉諾之命と伊弉冉之命は兄妹であるけれども互いに睦みて多くの神々を生み、国を生したという。
それは人ならぬ、神故に出来たことなのでしょう。
それなら、わたくしは。
わたくしは、人でなどいたくはない。
だけれども、それは叶わぬことなのでしょう…。
だからせめて、兄さま、わたくしの前から消えないでくださいまし。
兄さま、
兄さま、
愛しております。
青々とした木々の海が、青年の眼下に広がる。
それは、青く澄んだ初夏の空と相まって、悠然としていた。
青年はそれを、小岩の上で凝眸している。
長く絞まった眉に大きく黒めがちな眸、すうと通った鼻筋、細い顎。
長い髪を、前を残し後で纏めて流したその姿も相まって、まるで女性のようだが、その顎に対して太い首や肩筋、厚い胸板、高い身長は非常に男性的である。
「珪弥様」
後方で青年―――――燎珪弥を呼ぶ声がした。
珪弥はその声に、踵を返して小岩から跳び降りる。
珪弥が降り立った視線の先には、丸太と木板を無造作に繋いだ板塀があり、その切れ間となる開け放たれた粗末な木門に、額がやや広い壮年の男性がいた。
「珪弥様、支度も出来ましたのでこちらへ」
その男はそう言い、珪弥を塀の中へと促した。
珪弥はそれに従がい中へと入る。
その中には二棟の大きい平屋と、その弓手に高足の貯蔵小屋、馬手に井戸と竃小屋があり、それらを囲むように鎧武者の巨人―――――鎧羅が多数並んでいた。
その中で一体、異様な雰囲気を醸しだしている。
膝を曲げ、脚を中途半端に投げ出し座り、項垂れた腕、おどろ髪に、額の中央から後頭部にかけて、金色とも黄土色ともつかぬ色合いの鶏冠があった。
そして、その全体を藍色に塗り、その上から裾を燃やすように紅色の炎を描いている。
まだ日は高いというのに、それだけが、闇夜に松明に照らされているようだった。
天徳三年、皐月、伊賀。
火具土発見より約一年余り。
珪次郎達は大和から再び都を経て、伊賀へと入っていた。
都では朱芭乎岳という下家臣が、兵となる有志、八十二人、鎧羅二十五柱を集めており、それと珪次郎達は合流していたのだ。
とても軍勢とは呼べぬほどの規模ではあったが、それでも大群にかわりにはなく、身上的に隠れながら移動する必要があった為、山中を通るように移動せざるにおえなかった。
おかげで一年もの時間が掛かったのだ。
伊賀に入ると、珪次郎達はかなり距離はあるが、千方が構える山中の城に向けて、同じく山中に簡素な砦を造った。
それが今彼らが居るところである。
そうしてやっと腰を据える事が出来た珪次郎たち一行は、そこで遅れに遅れた珪次郎の、元服の儀が執り行なわれた。
これにより珪次郎は燎家の頭首としてその名を、代々頭首が継いだ珪弥の名に変えたのだ。
もう、どれ程経ったのだろうか。
珪弥はそう想いふっと窓の外を見る。
外はもう暗く、星々が瞬いていた。
屋内に目を転じると、相も変わらず屈強というか、野卑な感じすらする男達が思い思いに酒を酌み交わし、笑い合い、語り合っている。
日が高いうちから皆飲んで喰ってをしているのに、とても疲れるなどといった感じは受けない。
珪弥はそんな光景に、思わず苦笑交じりのため息を吐いた。
ただ、酒気の所為か、この雰囲気の所為か、珪弥自身も疲れは感じてはいない。
尤も、酒はもう沢山という感じだが。
ふっと、珪弥は外に出たくなった。
ただ、当然ながら主賓である珪弥の座る上座から、出入口のある下座までは遠く、目の前にいる男達を少し退かして通り道を作らねばならない。
でも、珪弥はそれも悪い気がしていた。
そこで珪弥は左右を見る。
左には気難しそうな顔をした、やや頬の扱けた小柄な男―――――朱芭乎岳が寡黙に手酌をしていた。
右にはそれと対照的に額が広い、大柄な壮年の男―――――白塚奈嘉背が髭塗れの顔をした男と語らっている。
珪弥は少し逡巡し、奈嘉背の肩を軽く叩いた。
「あ、はい珪弥様、如何なされました?」
男と話していた口調と違い、畏まった口調でそう聞いた奈嘉背に、珪弥は「少し外の風に当たりたいのだが」と小さく言った。
それに「解り申した」と答えた奈嘉背はすっくと立ち、「皆、少し道を空けてくれ、珪弥様がお出になられる」と、声を張って皆を退かすように腕を振る。
その声に談笑はピタリと止み、出口までの間に腰をすえた者達が、疎らに声を上げて退き、戸口までの道を空けた。
そして全員が「どうぞ」と珪弥に向けて言うと、奈嘉背も「さあどうぞ」と腕を差し出して、珪弥を戸口まで促す。
珪弥は複雑な表情でそれに「ありがとう」と返し、戸口まで足早に移動して外に出たのだった。
外は薄暗い月明かりの中に、並んだ竃小屋と井戸の奥に鎧羅達が照らし出されている。
珪弥は縁石を降り、月明かりの下に躍り出た。
そこでやっと落ち着いたように、深く息を吐き、井戸に向かって歩き出す。
井戸の蓋を開け、桶の半分くらいに汲み上げた水を、戻した蓋の上に置き、片手で一掬いして口へ運ぶ。
残りを両手で掬い、二、三度顔を洗うと、袖口でその顔を拭って、踵を返し井戸の縁へと腰を掛けた。
月明かりに照らされた大小二棟の平屋と、その後ろに居並ぶ鎧羅達。
左に見える、珪弥がいたものよりも二回りほど小さいその平屋は、サヤや雪奈、それに賄いを勤める六人の、老若の女性達―――――飯炊き女が寝起きする場所だ。
珪弥が腰を上げると同時に、その小さい平屋の戸が開く音がした。
珪弥は目を凝らし、その小さな影を見る。
建物の影から月明かりの下に出たその少女は、白い着物に身を包んだサヤであった。
あれから少し成長したサヤは、青海寺遁走から見せていた憂いた表情をより濃くしており、月明かりに照らされたその姿には儚げさすら見てとれる。
「兄さま、」
はたと珪弥に気づいたサヤが、そうか細い声を上げた。
それに珪弥は思わず歩み寄る。
歩み寄ったサヤは少し珪弥の眸を見上げると、すぐに視線を落とし、珪弥の右腕を弱々しく掴んだ。
珪弥はそれに目をやった時、「兄さま」と更に弱々しいサヤの声がした。
その声にサヤの顔を見返すと、その貌はより一層憂いを深く見せている。
「兄さま、どうか、どうかわたくしの前から、いなくならないでくださいまし」
泣きそうな声で、珪弥を見つめてサヤは言う。
潤んだ眸に、珪弥の顔が映っている。
「兄さまはわたくしの凡て、兄さまがいなくては、わたくしは生きていけない。兄さま、わたくしは兄さまのことを…」
サヤは上擦った声のまま、一気にそこまで言うと、複雑な貌をして俯く。
そして「し、心配なのです」と、か細い声で付け加えた。
暫しの沈黙の後、サヤはそっと掴んだ珪弥の手を離し、俯いたまま竃小屋の方へと駆けて行く。
その姿を、月明かりだけが照らしていた。
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