サヤは何故か、不意に目が覚めた。
もともと深く寝ていたわけではないが、何故だか目が覚え、気づけば起き上がっていたのだ。
そして、逡巡するまでもなく、出入り口の木戸の前に立っていた。
最も奥のほうで眠っていた筈なのに、意識もせずにここまで移動している。
そこにきてサヤは、木戸に手を掛けたままやっと逡巡して、辺りを見渡す。
しかし、外から僅かな物音が聞こえた時、その逡巡は掻き消えように、サヤは木戸を開けて外へと躍り出た。
縁石に並ぶ草履に足を掛けて、夜の中に降り立つと、そのまま誘われるように月明かりに向かって歩む。
月明かりに躍り出たサヤの目に、井戸の前に立つ人影が見えた。
それは、サヤが思い描いたとおりの人―――――兄、珪弥である。
その姿を確認した時、サヤは吐息とも言ともつかぬ声を小さくあげた。
珪弥はサヤの姿を認めるや、足早に近付いてくる。
サヤもよろよろと歩み、互いにその距離を詰めた。
拳一つほど間を開けて互いに向き合う。
サヤは珪弥の眸を凝視した。
その眸には、月明かりに照らされた、自らの姿が映っている。
「兄さま」
自然に言葉が出た。
「兄さま、どうか、どうかわたくしの前から、いなくならないでくださいまし」
そう言いながら、気づけば、いつの間にか兄の、珪弥の右腕に手を掛けるように掴んでいた。
珪弥は困ったような、哀れむような顔をしている。
「兄さまはわたくしの凡て、兄さまがいなくては、わたくしは生きていけない。兄さま、わたくしは兄さまのことを…」
サヤはそこまで一気に言って、はたと我に返り、俯いた。
―――これ以上は言ってはいけない。
―――兄さまにも、誰にもこの”本当の思い”は、知られてはいけない。
サヤは目を伏せたまましばらく沈黙すると、「し、心配なのです」とか細く付け加え、兄の手を離し、足早に竃小屋へと駆けた。
隠れるように竃小屋の裏に回る。
サヤはその壁に背を着け、何故か泣いた。
両手を口に当て、嗚咽をこらえると、後から後から涙が溢れてくる。
理由は判らない。
否、
判っているのかもしれないが、それは決して”判ってはいけない”のだと。
そう、だから言葉にすることなど、してはいけないのだ。
サヤは奥歯をきつく噛み、瞼を閉じた。
涙と心が落ち着くまでそうしようと。
闇が凡てを支配し、少しづつサヤの心を落ち着かせた。
サヤは口元から手を下ろし、ゆっくりと瞼を開ける。
その時サヤは、信じられないモノを見た。
それは闇の中から髑髏が浮かび上がるという、常軌を逸した光景である。
その髑髏は吃驚する間もなく、無音のままサヤに近付く。
やっとサヤが絞るような声を上げると、その髑髏は揺らぎサヤの躰に鈍い痛みが走る。
―――兄さま、
―――わたくしは、わたくしは兄さまのことを、
薄れゆく意識の中サヤは己が思いを反芻する。
―――愛しております。
そして、サヤの意識は、闇へと消えた。
雪奈は何故か眠れず、平屋―――――女部屋の真後ろに鎮座している己が鎧羅、白狼の下に立ち、刀を降っていた。
月が煌々と輝くほどの時分だというのに、未だ女部屋の隣の大きい平屋―――――男部屋から宴の声が聞こえている。
雪奈はその声が聞こえる度に、呆れ、力が抜けた。
空に輝く月が、まだ太陽だった頃からこの宴は続いてるのだ、呆れもする。
雪奈は深く溜め息を吐くと、諦めたように刀を鞘に戻した。
そのまま白狼に寄り掛かり、雪奈はその顔を見上げる。
見上げた白狼は、虎足を器用に畳み、膝を着いて雪奈を見下ろしていた。
尤も、月明かりの下では、その狼のような顔も闇に消え、僅かに輪郭を見せるだけであるが。
そうして雪奈がぼっと、白狼を見ていた時である、不意に男部屋の、宴の声が切れた。
雪奈はそれを不思議に思い、男部屋に視線を移す。
すると、戸口を開ける音がした。
雪奈は男部屋と女部屋の間に移動し、誰が出てきたのか見ようとする。
暫くすると、再びぼつぼつと宴の声が戻り、それと同じくして、月明かりの下に誰かが出てきた。
しかし、薄暗い月明かりと後姿では、誰であるか判別は難い。
純粋に誰が出てきたのかという、取るに足らないことで他意はまったくないのだが、見えないことで雪奈の好奇心は刺激された。
思わず足音を忍ばせ、二つの平屋の影に隠れながら、その姿を凝視する。
その人影は、井戸で水を飲み、そのまま井戸の縁に腰掛けた。
顔がこちらに向くが、やはり距離もあり、良く見えない。
雪奈が目を凝らしたその時、今度は背を着けていた、女部屋の戸口が開く音がした。
びくりとその音に、雪奈は背筋を伸ばして、浮かしていた頭を部屋の壁に着ける。
雪奈は僅かに咽を鳴らし、唾を飲み込むと、首をぎくしゃくと回して再び視線を戻した。
女部屋から出でた人影は、か細い躰に、月明かりの下でも映える、白い着物を羽織り、その背に黒い艶やかな髪を湛えている。
その姿から、多分サヤであろうと雪奈は感じた。
「兄さま、」
か細い声が聞こえた。
それに呼応するように、井戸の人影―――――珪弥が目の前のサヤに近付いてくる。
そして、二人は互いに引き合うように立ち、その顔を見つめ合った。
雪奈はその二人の影に、一年半程前に焼け落ちる、青海寺の前で見た光景を思い出し、顔を背け視線を落とす。
そこで雪奈は、はたと我に返り、そのまま走った。
―――私は、いったい何を?
―――こんな、こんな暗いところでいったい…
再び白狼の前まで駆け戻ると、足を止め、そのままがくりと膝を着いた。
雪奈は自らがとても、汚らわしいような気がして、吐き気を通り越し反吐が出そうになる。
雪奈は自らに走る嫌悪感に身を攀じるように立ち上がり、白狼の腿に背を凭れ掛けた。
俯いたその貌は、苦渋に満ちている。
だが、そんな雪奈の鬱々とした気持ちは、不意の奇声に破られた。
雪奈は、はっと顔を上げて、声の方を見る。
竃小屋の方だ。
それは極幽かな声である。
外にいたから雪奈には辛うじて聞こえたのだろう、事実、二つの平屋から人が出てくるような気配はない。
しかも、沿いの幽かな声は、以後聞こえていないのだ。
気づかないのも無理はない。
だからであろう、雪奈はそれに言いようのない胸騒ぎを感じた。
だが、ここからは竃小屋は見えず、何が起こっているのか確認は出来ない。
雪奈はそのまま少し凝視しながら逡巡したが、軽く息を吐くと、竃小屋に向かって足早に向かった。
今度は影に隠れることなく、女部屋の横を堂々と歩く。
馬手には鎧羅達が居並ぶ。
胸騒ぎが激しくなり、徐々に足が早くなる。
竃小屋が視界に見えた時、ちらりとサヤと珪弥がいた場所を横目で見た。
最早、サヤも珪弥もいない。
異変に気づいているのならば、近くにいた二人は既に向かったのであろう。
―――否、巻き込まれたのか?
雪奈はその考えに、太刀に手を掛けると更に足を速める。
そして竃小屋の裏手に辿り着いた、雪奈が見たのは異様な光景であった。
−10−
|