肆節



 この世はくだらぬ事ばかりだ。
 己の力を過信して、帝に叶いもせぬ願いをし、叶わなければ刃を向けたあの男も。
 そんな奴に、己の欲望の為、簡単に我が子を捧げた愚父も。
 それにただ黙って傅いて、一生を終えた母も。
 実兄を懸想する愚かな少女も。
 それを斬った、その兄も。
 実に愚かで、歪で、くだらない。
 それは帝も、それに傅く者達も、皆同じだ。
 くだらない、くだらない、くだらない、くだらない、くだらない、くだらない、くだらない…。
 まったくもって不快で、くだらない。
 そんなもの、凡て私が、この手で塗り替えてやろう。
 私がお前等、愚鈍なる者の、本当の神になってくれよう。


 雪奈は震えていた。
 何が起こったのか、暫し理解出来ず、ただ呆然とそれを見て震えていたのだ。
 雪奈の目の前には、血溜りに膝を着き、そこに横たわるサヤを、ただ呆然と見る珪弥の姿があった。
 雪奈は眼前で起こったこと、凡てを反芻する。
 戒道信也が憎々しげに、下卑たことを言い放った刹那だった。
 珪弥は放たれた矢の様に。
 否、矢よりも早かったかもしれぬ。
 珪弥は駆けた。
 怒りか、殺意か、良くは判らぬが、憤っていたのは確かであろう。
 珪弥は、戒道信也に向かって駆けたのだ。
 恐ろしく速く、脇に挿した太刀を抜きながら駆けた珪弥は、戒道信也の眼前、切先の間合いまで後一歩というところまで一瞬で駆けた。
 その勢いで抜刀を終えれば、それが即、決着となり、戒道信也の首が床に落ちていた筈である。
 だが、思わぬ事が起こった。
 何故かは判らないが、サヤが、戒道信也の横に座していたサヤが、何時の間にか、珪弥と信也の間に割って入ったのだ。
 珪弥の太刀の間合いから、もう半歩も無いところであった。
 既に珪弥の太刀は鞘を離れ、切先は珪弥のほぼ前にまで来ていた時だ。
 踏み込みと同時に振り抜けば、信也の首は見事に落ちていただろう。
 だが、サヤが割って入った事で、珪弥のその切先は、サヤの脇腹を抜け、逆袈裟掛けにサヤの躰を断ち斬った。
 そして、弾けるように、もしくは幾つもの真紅の花弁が、一斉に咲き散るように、紅が珪弥とサヤの姿を包んだ。
 紅い飛沫が壁に、天井に、雪奈の直ぐ目の前に飛び落ちるのを見て、雪奈は視線を落とした。
 そして、何か鈍い音が。
 雪奈がその音に、恐る恐る視線を戻した。
 それが、今、雪奈が見ているこれだ。
 珪弥は呆然としている。
 雪奈はその光景に動けず、ただそのまま震えて凝眸していた。
 そしてそれは、ここに居るもの凡てがそうであろうと思い、少し視線を泳がせた時である。
 雪奈はそこに、違和感を感じた。
 雪奈は更に視線を振る。
 そして気付いたのだ。
 信也達の姿が、忽然と消えているのを。

 未だ黒々とした焼け跡の上に、再び櫓が組まれる事になった。
 勿論、サヤの遺体を焼く為である。
 初夏の蒼空に、甲高い木槌の音が響くのを背にして、雪奈は男部屋の方へと向かう。
 今、男部屋には珪弥とサヤの遺体が居る。
 二昼夜、珪弥はその場から動かず、ずっとサヤの遺体と居るのだ。
 雪奈はそこへ膳を持って、食事を運ぶ途中である。
 他の膳を運んだ飯炊き女の話では、殆ど食事も摂らず、裡でサヤの傍を離れないらしい。
 無理も無いことだが、ここまで塞ぎ込んでいると、見ているほうが辛い気持ちになる。
 それは皆同じ様で、兵達は一様に暗い顔で、男部屋を囲ってそこで寝食をしている様だ。
 別に誰に言われたわけでもない。
 その鬱々とした空間に、一緒に居るのは居た堪れないから、皆そうしてるに過ぎないのだ。
 尤も全員ではない、半分は櫓を組むのに出ている。
 身体を動かしていないと、気が滅入るという者も居るだろう。
 雪奈はその男達の間を抜け、戸口の前に立った。
 そして、膳を脇に置き「失礼します」と言いながら、男部屋の戸を開ける。
 開けるなり、言いようの無い臭い―――――死臭が鼻を衝き、雪奈は思わず顔を背けた。
 雪奈は顔を背けたまま、置いた膳を持ち直し、改めて部屋に顔を向ける。
 雪奈から一間ほど先に、夜具に包まれ、横たわったサヤの遺体と、その傍らに俯いたまま座す、珪弥の姿が見えた。
 部屋の裡は幾つもの窓から光が射し、充分に明るい筈なのに、何故かその周辺はやけに暗く感じて見える。
 だがしかし、その中でサヤの遺体だけが、妙に白く浮き上がってる様に見え、それに雪奈は少し息を呑んだ。
 草鞋を脱いだ雪奈は、部屋の中に入ると数歩進み、その場に膝を着き、膳を一旦置いて、そのまま躰を廻して木戸を閉める。
 そして、膳を持ち直し、膝立ちのまま珪弥に向かって擦り歩き、サヤの頭の、少し手前に膳を置くと「どうぞ、お食事です」と素っ気なく言い、少し膳を押した。
 それに珪弥は、雪奈を見ずに、俯いたまま「ありがとう」と、呟くように答える。
 雪奈は少し貌を歪ませ、「では、これで」と不機嫌そうに言うと、立ち上がって踵を返す。
 そして、そのまま木戸まで歩くと、少し振り向き、珪弥の姿を改めて見た。
 珪弥は変わらず、俯いたまま微動だにしていない。
 それに雪奈は、堪らなく苦々しいような貌をして、立ったまま俯く。
 そして、雪奈の裡で、何かが弾けた。
「何時まで、そうしてるつもりですか!?」
 雪奈は、弾けた何かに気圧される様に、そう叫んでいた。
 言うつもりもなかった言葉を。
 こんなことを言っても何も始まらないし、変わりもしない。
 そんなことは判っていたが、雪奈にはもう抑えられなかった。
 雪奈は奥歯を噛んで、踵を返す。
 珪弥は変わらずそこに佇んでいる。
 やはり雪奈を見ようともしない。
 その姿に、雪奈の心は更に憤った。
 そして、踏み寄りながら叫んだ。
「死ぬまで、死ぬまでそうしているつもりですか!?」
 雪奈は判っていた、それは、言ってはいけない言葉だと。
 傷口に塩を塗るような、ただ相手を悪戯に追い詰めるだけの、最低の言葉だと雪奈は判っていたのだ。
 だがしかし、雪奈の裡で目覚めた思いは、最早、抑える事が出来なかった。
 戦慄く雪奈は、珪弥を凝視する。
 珪弥は、その雪奈の叫びに、やっとゆっくりと顔を上げて、その姿を見た。
「大丈夫、僕は”こんなことでは”死なないし、立ち止まらないよ」
 珪弥は雪奈の叫びにそう答えると、窶れた顔で笑んだ。
 珪弥の言葉に、雪奈は驚愕した貌をして、後退る。
 そして「そんな、”こんなこと”だなんて…」そう言い、胸を押さえた。
 それに、珪弥は柔和な貌をし、再びサヤを見る。
「そう、”こんなこと”なんだ、奈嘉背殿に同調したとは言え、雪奈殿や、乎岳殿、多くの兵が僕のために動いている」
 そのままそう言うと、珪弥は雪奈の顔を再び見た。
「更に、奈嘉背殿は死んだ。これだけ多くの人を巻き込んでおいて、僕が、僕が妹を、サヤを殺した程度のことで、泣くわけにも、膝を折るわけにもいかない!」
 続けてそう叫んだ。
 そして、「ましてや、死ぬことなんて出来るわけが無い…」そう小さく言った。
 雪奈はその言葉に、胸を押さえながら、躰を屈する。
 そして、逃げるように部屋を出た。
 雪奈は振り返りもせず、駆けた、己の鎧羅―――――白狼に向かい。
 そして、白狼の腹部を開けると、その裡に転がるように入り、腹部を閉め、蹲まった。
 闇が雪奈を包む。
 闇の中、雪奈はそのまま嗚咽を漏らして泣いた。
 ―――あの人も同じだ。
 ―――私と同じだ。
 己の愚かしさに。
 ―――でも、私は、
 ―――私は結局あの人には勝てない…。
 己の弱さに。 
 ―――判っていた、私では勝つことなんて出来ないことなど。
 ―――だから私はあの人に・・・。
 雪奈は手を解き、へたり込むような姿勢で、黒い虚空を見る。
 そして、小さく消え入る様な声で「最低だ…」と言い、下を向いた。
 雪奈の手の甲を、幾滴もの己が涙が濡らす。
「結局私は、あの人の事が好きだったんだ…」
 そう呟いた雪奈の眸には、もう涙は無かった。

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