「絶影か?」 
 珪弥は眉根を顰めてそう言った。
 絶影は戒道家の鎧羅で、珪弥も数回見たことがある鎧羅である。
 その漆黒の鎧羅―――――絶影は、ゆるりと左腰に下げた、太刀を引き抜いた。
「どうやら、時雨殿の言葉は、真のようであったな」
 絶影は、信也の声でそう火具土に向けて言うと、一歩前に出た。
 それに珪弥も、絶影と同じく火具土に、太刀を抜かせる。
 そして、珪弥は火具土を走らせた。
 それに呼応して、絶影も走り出す。
 鎧羅特有の、重たい鉄の音が山間に響く。
 絶影は駆け出して直ぐ、上体を左に傾けて、太刀を握る馬手を振り上げた。    
 珪弥はそれに対する様に、火具土の馬手を操り、太刀の先を、胸元まで上げる。
 珪弥の予測どおり、絶影は太刀を握った、馬手を伸ばしてきた。
 空を切り、切先が火具土の腹部へ迫る。
 珪弥はそれを難なく、己が太刀の切先で弾いた。
 ぐらりと絶影の体勢が崩れる。
 しかし、その体勢を利用して、今度は弓手を伸ばした。
 指を揃え、空を切り、絶影の掌が、火具土の頭部に迫る。
 珪弥はその掌を凝視し、気合を入れるように叫んだ。
 すると、その視界が閃光に包まれ、弾ける様な音が響く。
 珪弥の視界が戻ると、迫る絶影の弓手は消えていた。
 そして、目前まで迫っていた絶影は、弓手を失い、その衝撃に大きく体勢を崩して、仰向けに倒れ様としている。
 珪弥は火具土の脚を少し大きく広げ、それに迫った。
 絶影は土塊を飛ばし、轟音を響かせ倒れる。
 珪弥はそのまま、火具土の片足を、その絶影の腰辺りに踏み乗せ、馬手に握った太刀を、絶影の胸の下―――――鳩尾の直ぐ下に向けた。
 そのまま突き刺せば、裡に座す、信也の首に当たるだろう。
 一突きで決着は着く。
 だが、珪弥は震えていた。
 駆け跳び、絶影を踏み付けるまでは、冷静であり、戦う思惟も強かったのだが。
 決着が着くこの場面に於いて、珪弥は戦慄いたのだ。
 そう、殺すことに。
 今までは、どうしようもない状況で、その最後の一撃を放っていた。
 ある時は火具土の力に押され、ただ勢いのままに。
 だが、いざ平静な心持で、その一撃を放とうと思うと、震えた。
 躊躇し、震え、戦慄き、恐れたのだ。
 珪弥の呼気が早くなる。
 珪弥は目を瞑り、その恐れを振り払うように叫んだ。
「戒道信也!我が妹、サヤの仇、これで討たせてもらう!」
 その叫びに絶影は、信也の声で呵呵大笑した。
 山間に笑い声が谺する。
 一頻り笑うと、絶影は信也の声で「妹を殺したのは、お主だろう?」と言った。


 信也の視界が、衝撃と共に閃光に沈み、なす術も無くその衝撃に当てられて、倒れた。
 地響きと、重たい鉄の衝撃が走る。
 そして、信也の視界が戻ると、再び鉄の衝撃が信也の躰を震わせた。
 信也は、衝撃を感じた方に、視線を向ける。
 見ると、火具土が片足を己が鎧羅、絶影の腰辺りに乗せ、その馬手に握った太刀の切先を、蛇腹状の腹部に翳しているのが見えた。
 息を呑んだ。
 そのままその太刀を突き立てられれば、確実に信也は死ぬ。
 信也は、この状況を、如何として打破するか、激しく思慮を巡らせた。
 だが、この状況は、どう動こうとも、何を言おうとも、如何ともし難いのは目に見えている。
 冷や汗が滲む。
 そんな、信也の脳裏に、時雨の言葉が浮かんだ。
 ―――如何に策を弄しようとも、
 ―――どうしようもならぬモノもある。
 信也は、奥歯を強く、噛み締める
 ―――これが、
 ―――本当にこれがそうだと言うのか?
 信也は、火具土の姿を睨む。
 ―――これで、
 ―――こんなところで、
 ―――終わりなのか?
 ―――この、この私が?
 信也は震えた。
 絶望や恐怖ではない。
 悔しさに震えたのだ。
 志半ばで潰える悔しさ。
 この、半端な男に、負ける悔しさ。
 そして、己を過信し過ぎたことへの、悔しさ。
 火具土とて、一対一なら何とかなろうと考えた事。
 秘密裏に事を済まそうと、四性鬼のみに頼りすぎた事。
 己を守る兵の一人もない。
 結局、この如何ともし難い状況を招いたのは、己の過信であった。
 そう思うと、悔しさと怒りに、信也は激しく震えたのだ。
 その時である、「戒道信也!」と、火具土から珪弥の声が響いた。
「我が妹、サヤの仇、これで討たせてもらう!」 
 火具土は、珪弥の声で、続けてそう叫ぶ。
 その言葉を聞いた瞬間、信也は思わず笑った。
 しかも激しく、呵呵大笑したのだ。
 何が可笑しかったのか明白である。
 珪弥の発した言葉が、可笑しかったのだ。
 そしてその言葉により、この状況を打破出来る。
 否、
 それどころか、この火具土を斃せるであろう、光明を得た事に、信也の口から、思わず笑いが溢れたのだ。
 信也の笑い声が、山間に響く。
 信也は一頻り哄笑し、言った。
「妹を殺したのは、お主だろう?」
 と。
 そして、再び哄笑した。
 その信也の言葉に、火具土は力なく、今まで翳したその太刀を、握った馬手を下げる。
 信也はその姿を、笑いながらも見逃さなかった。
 ぐらりと、火具土の上体が揺らいだ。
 その刹那、信也は「甘い!」と叫ぶと、残った絶影の馬手を操り、その手に握らせた太刀を、深々と火具土の腹部に突き刺した。
 鉄の拉げる感覚と、肉を断つ感覚が、絶影の馬手から、手繰り糸を伝い、信也の弓手を震わせる。
 信也は、その太刀の鍔が、火具土の腹部に触れるまで、更に深く突き刺すと、絶影にその太刀から手を離させた。
 火具土は、ふらふらと数歩下がる。
 そして、そのまま尻餅を着いた。
 鉄の音と、土塊が山間に舞う。
 信也は、その光景を見ながら、絶影を立ち上がらせ、再び哄笑する。
 信也の笑い声が、夜の山に谺した。

            *         *         *

「妹を殺したのは、お主だろう?」
 信也のその言葉が、珪弥の心を穿つ。
 穿たれた心に、幾度もあの光景が黄泉還る。
 響く信也の言葉。
 溢れる感情。
 踏みしめる床板の音。
 引き抜いた太刀。
 サヤの顔。
 そして、手に伝わる感触。
 布、皮膚、肉、筋、臓腑、骨…。
 鮮血に彩られる、サヤの姿。
 そして、鮮血に崩れゆく、サヤが言う。
 兄さまと。
 兄さまと。
 兄さまと。
 兄さまと。
 兄さまと。
 兄さまと。
 兄さまと。
 兄さまと。
 兄さまと。
 兄さまと。
 兄さまと。
 兄さまと。
 サヤの声が、珪弥の心の裡で、幾度も、幾度も、幾度も、幾度も、幾度も、繰り返し響く。
 珪弥は、苦悶の貌で喘ぐ。
 そして、喘ぎながら叫んだ。
「止めろ!止めてくれ!!」
 しかし、その叫びは、鉄の拉げる音に掻き消され、その刹那、珪弥の凡ても消された。

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