雪奈は激痛に震える手で、己の左肩を弄った。
生暖かい、血の感触が掌に伝わる。
そして、指先に菱型に似た、鋭利な鉄の塊の、感触を感じた。
それは雪奈の、鎖骨の少し上を貫いている。
雪奈は痛みに呻く。
その時、再び鉄が磨れる音がして、その鉄塊は引き抜かれた。
雪奈はその痛みに、思わず蹲る様に身を縮める。
それに呼応する様に、白狼も前方に揺らいだ。
雪奈は歯を食いしばると、痛みに薄れそうになる意識を抑え、白狼の足を改めて、踏み締めさせた。
そして、そのまま踵を返し、拳を振る。
雪奈は後方に、己を刺した、”何かが”あると考えたのだ。
だが、その考えは裏切られ、白狼の拳は、敢え無く空を切った。
雪奈は辺りを見渡す。
何も無い。
何時もであったなら、ここで雪奈は、事態に硬直してしまうのだが、今は冷静に対処しようと心を奮わせる。
雪奈は白狼の馬手を、その左の腰に下げた、太刀に掛け、引き抜かせた。
そして、耳を欹てる。
その時である、背後からまた「雪奈殿」と、珪弥の声が聞こえたのは。
珪弥は白狼の直ぐ背後で、髑髏の顔を持った黒い鎧羅が、立っているのが見えた。
珪弥はそれに吃驚し、火具土を走らせる。
その髑髏の鎧羅が、白狼から離れると、白狼の上体がぐらりと前のめりに崩れた。
それを見て、珪弥は思わず雪奈の名を叫ぼうと、その口を開く。
だが、予想に反して白狼はそのまま踏み堪え、そして、その拳を振るう様に、踵を返した。
白狼の足元から、土塊が舞う。
だがしかし、珪弥はそこでありえないものを見た。
それは、髑髏の鎧羅が、忽然と消える光景である。
白狼の拳は当然、空を切り、その動きもそこで止まった。
白狼は、それに硬直する。
珪弥も同じく、火具土の動きを止めた。
しかし、何時もとは違い、白狼は直ぐに体勢を整え、左腰に下げた太刀を引き抜く。
珪弥はそれに、はたと我に返り、「雪奈殿!」と、改めてその名を呼びながら、火具土を走らせた。
それに白狼は、注意深く辺りを見渡しながら、振り返る。
そして、「珪弥様」と、雪奈の声で白狼が呼んだ。
珪弥は火具土を、その白狼の弓手側に立たせる。
その時、ちらりと白狼の、蛇腹状の背中が見え、その背に、抉じ開けたかの様な瑕があるのに、珪弥ははっとした。
おそらくこれが、白狼が上体を崩した、原因だろう。
そしてこの瑕は、裡の人間―――――雪奈の座してるであろう位置と、重なっている。
珪弥はそれに、「大丈夫であるか?」と、深刻そうな声で聞いた。
「掠り傷程度です、大事はありません」
その問いに、雪奈の声で白狼がそう答える。
そして、その首を正面に戻す。
「それよりも、珪弥様は先に行って下さいまし。この下におそらく、この鬼達を動かしてる将がいるのでしょう?将を討ち取れば、鬼も止まらざる終えないでしょう」
雪奈の声で、そう言いながら、白狼は首を竦めて、辺りを凝眸しする。
そして、そのままの姿勢で、「それに、この敵ならば、白狼の方が向いています」と加えた。
珪弥はそれに、「しかし…」と、難しい声をあげる。
珪弥は心配であったのだ。
それは得体の知れない、髑髏の鎧羅のことでもあるのだが、何よりも、白狼のその、背中の疵。
雪奈は大丈夫だとは言うが、あの疵は、明らかに裡に居る、その雪奈自身に達している筈だ。
「心配しなくとも、兵達も来てますので」
そんな珪弥を察したのか、白狼は雪奈の声でそう言う。
そして、「ですからお早く!」そう加えて、白狼は火具土を肩で押す。
珪弥はそれに、少し逡巡するも、「判り申した!」と叫んで、火具土を走らせた。
その時である、突如、髑髏の鎧羅が火具土の前に現われたのは。
髑髏の鎧羅は両の手に、小太刀―――と言っても鎧羅相当の大きさであるが―――を逆手に持ち、両腕を広げて舞うように火具土に襲い掛かった。
珪弥は吃驚として、火具土の足を止め、その両腕で頭部と胴体を覆わせる。
しかし、珪弥が予期した衝撃は来なかった。
変わりに、重たい鉄同士が、激しく衝突する音が響く。
珪弥は腕を開け、その視界を開いた。
その視界に、土煙が覗く。
そして、その珪弥の眸に、髑髏の鎧羅の腕を掴み、揉み合う白狼の姿が映った。
「珪弥様、は、早く!!」
白狼は苦しそうな、雪奈の声で叫ぶ。
それに珪弥は「あ、ああ…」と、生返事を返して、火具土を再び走らせた。
火具土は、二体の鎧羅の脇を抜けて、また山道を下る。
その後方で、鉄同士の衝突音が響いた。
珪弥はそれに振り返るのを堪えて、山道を急いだ。
やがて、山道の起伏が緩やかになった頃、珪弥の目前に”それ”が映った。
木々が少なく、開いた地形に立っていたそれは、漆黒の鎧を纏っている。
ただ、それの腹部は蛇腹状で、腕と太腿は節立っていた。
鎧羅である。
珪弥はその鎧羅に、「絶影か?」と言った。
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