伍節
はあ、”鬼”でございすか?
鬼というものは大きく分けますと、二種類あるのですな。
一つは大陸、唐土では悪いこと、つまり天災や病等は”鬼が憑く”と、云われておりますな。
余談ではありますが、これが陰陽道に入り、鬼氣のする方角、つまり悪しき事、災いを齎す方位としてある、丑寅の方角を、鬼門と呼んだのですな。
この事から、その姿も牛の様な角を生やし、虎皮を纏った化け物と成ったわけですな。
さて、もう一つの方ですが、こちらの方が吾方の国としては、本来の意味にあたります。
それはですな、居てはならない人と言う、去ぬ者、去らぬ者を表します、”去ぬ”が訛ったもの。
と、言ますか、唐土の鬼と混じったものがそうですな。
こちらは、具体的に申しますと、そう、帝に反旗を翻した者や、帝に与せぬ者のことです。
つまり、皇、朝廷に従わぬ者の事、ですな。
まあ尤も、この意味は、後々に残す、物語を記す為に、無理矢理に当て嵌めたものとも言えますが。
ですから、本来と言いますか、古来、大和の民が使っていた意味合いの、鬼ではないのですな。
尤も、本来の”鬼”は、誰もが知ってる意味ゆえ、今更、言うには及びませぬが。
…は?
その本来の意味も知りたいと?
はっはっはっはっはっはっ。
こちらは説明する必要もありませぬ。
多くの者達が、何時も使っております故。
え?
それでもと?
はあ、まあ聞けば、何と言うことは無いことでして、お聞きになっても、おそらく肩を落とされるだけかと思いますが、そうまで言うのでしたら、仕方ありませぬ。
元来、大和の民が使っていた”鬼”と言うのは、まあ言葉的には”去ぬ”の変形ですが、意味としては”人ではない人”に対して使う言葉なのですな。
はあ、良く判らないですか?
ではこう言えば宜しいですかな、”人ではなくなってしまった人”と。
つまりですな、人の力を超越した様な者、例えば化け物退治をした豪傑や、百人力、千人力と呼ばれる者、天才等も入りますかな。
もしくは、”人として犯してはいけない禁忌を犯してしまった者”。
多くの人々を殺したり、人の肉を喰ろうたりした者等もそうですな。
已む無い事情があったとしても、こういった者達は、凡からく”鬼”と呼ばれますな。
そして、先に述べました、帝に抗う者達も、これに組み込まれたわけです。
つまり、”帝に抗う者はもう人ではない”と、言いたいわけですな。
…ああ、それとですな、もう一つ。
”肉親を手にかけた者”もまた、鬼と呼ばれたりしますな。
如何ですかな?
聞いてみれば、何と言うことはない、至って普通の事でございましょう?
おや?
如何致しました、顔色のお加減が悪うございますよ?
珪弥様。
鉄同士の、重たく擦れる音が、山間に響く。
雪奈は眼前の、髑髏の顔をした鎧羅を、組み伏せんとしていた。
二体の鎧羅は、白狼は弓手を、その髑髏の鎧羅の左肩に、馬手は逆手に握られた、その鎧羅の、弓手の小太刀を鍔で受け止めて、互いに拮抗している。
髑髏の鎧羅は、残された馬手の小太刀を、白狼の脇腹に宛がうも、この密着した距離と、左の脇を掴むように肩を握られてることによって、思うような力が出ないようだ。
白狼の裡に居る、雪奈の耳に、鉄が擦れ合う音が響く。
雪奈はその、髑髏の鎧羅の馬手に注視する。
この状態ならば、小太刀を捨て、掌で攻撃した方が早いからだ。
雪奈としては、小太刀を捨てたならば、直ぐさま離れるつもりである。
ただ、雪奈はそうなる前に、組み伏せたかった。
髑髏の鎧羅の、能力―――消えること―――を、考慮すれば、離れるのは避けたかったのだ。
組み合ってる状態ならば、消えようと、何をどうしようと、確実に斃すことは出来るだろう。
しかし、離れれば、見失うことの方が高い。
一旦見失えば、逆に斃されても奇怪しくはないだろう。
雪奈が焦りを顕にする様に、手繰り糸を繋げた、両の指に力を込める。
その瞬間、鉄の拉げる音が響き、雪奈の頭の、直ぐ傍で何か、塊が迫るのを感じた。
雪奈は、白狼の視線を、その腹部にやる。
そこには、髑髏の鎧羅の、手の甲側の袖に当たる部分から鎖が伸び、その先に棒と丸い輪が繋がった物が、白狼の腹部に、深々と突き刺さっているのが見えた。
少し馬手を伸ばして、雪奈はその塊に触れる。
それは大きな、菱型の鉄の塊で、先程、雪奈の左肩を貫いた物だと判った。
雪奈は思わぬ、その攻撃に、白狼の身を引かせる。
そのまま、その鉄塊を、横にずらせば、己の頭を襲うからだ。
しかし、ただ逃げた訳ではない。
逃げるついでに、鎖を引っ張って、この髑髏の鎧羅を、前のめりに倒そうとしたのだ。
だが、あっさりとその髑髏の鎧羅は、鎖を切って、白狼から離れた。
三歩ほど、白狼を下がらさせたところで、雪奈はそれに気付き、「しまった!」と叫んだ。
雪奈は、体勢を立て直す間も置かず、白狼を走らせ様とする。
白狼はがくりとその上体を、崩れ落ちるように、前傾姿勢になった。
雪奈の躰を、震動が襲う。
雪奈は構わず歩を踏み出す。
だが、既に髑髏の鎧羅は消えていた。
振り上げさせた、白狼の太刀が空を切る。
雪奈はその場で歩を止め、瞼を閉じると、耳を欹てた。
雪奈は音と気配で、その位置を、何とか探ろうとする。
だが、後方から複数の、鎧羅特有の足音が響き、雪奈は仕方なく瞼を開け、白狼の踵を返させた。
馬に乗った乎岳を先頭に、兵の鎧羅―――――灯火達が白狼に近付く。
雪奈は苦い貌をしながらも、消える事の出来る、髑髏の鎧羅の事と、下に向かった珪弥の事を、伝え様と口を開いた、その刹那である。
雪奈の眼前に突如、その髑髏の鎧羅が現われたのは。
雪奈は吃驚して、思わず声を上げて、上体を退く。
白狼もそれに呼応して、その上体を退いた。
髑髏の鎧羅はその瞬間、両の脇を少し広げ、逆手に握った小太刀を振るう。
衝撃が雪奈の上方から襲い、がくりと白狼の躯を落とす。
そして、髑髏の鎧羅の弓手と、そこに握られた小太刀が、白狼の腹部に迫るのが見えた。
―――し、死ぬ?
―――ここで、このまま?
雪奈の貌が、恐怖に染まる。
だが、その攻撃は寸前で止まり、その時を同じくして、今まで感じたことのない、凄まじい震動が襲った。
山が、大地が、夜が、激しく震える。
そして、髑髏の鎧羅が再び消え、雪奈はそれに呼応するように、白狼の姿勢を直し、辺りを見渡した。
前方には唖然とする乎岳と、灯火達。
左右には、震動に葉を半ばまで落とした木々。
そして後方には、まあるく穴を穿たれた山が、雪奈の目に映った。
信也は一頻り笑うと、絶影を一歩下がらせ、馬手を向かせると、麓に向かった。
絶影の足が、数歩山道を下った時である、重たい鉄同士が擦れる、鎧羅独特の音が、信也の直ぐ傍でしたのは。
信也は、絶影の動きを止め、その向きを音の方向に向ける。
その音の、先を見た信也は、己が眸に映ったその光景に、戦慄いた。
そして信也は、戦慄きながら「ありえん!」と、思わず叫んだ。
信也が見たその光景は、火具土が、腹部に太刀を突き刺したまま、ゆるりと立ち上がる姿であった。
―――莫迦な、ありえない。
―――太刀が外れてたのか?
―――否、それこそありえない。
―――あの感触は、確実に肉を断っていた。
―――頭か、首か、胸かは確実に断たれてる筈だ。
―――生きていたとしても瀕死、鎧羅を動かす事など、出来る筈もない!
「そうだ、出来る筈ない!」
信也は己が想いを確かめるように、強くそう言った。
だが、信也の眸に映るのは、紛れもない、項垂れたまま立つ、火具土の姿である。
その火具土は、ゆらりと両の腕を上げ、その腹部に刺さった、絶影の太刀に掌を掛けた。
信也は咽喉を鳴らして、息を呑んだ。
火具土は、鉄が擦れる音を発てながら、その太刀を引き抜いた。
深く刺さったその太刀は、一度では抜けず、火具土は数回その掌を掛け直す。
二度、三度と磨れる音が響く。
そして、四度目の鉄の磨れる音がし、最後に鋼が撓むような音を発てて、その太刀は、完全に火具土から抜かれた。
太刀を抜いた火具土は、そのままその太刀を手離すと、再び両の腕をだらりと下げる。
鉄の音が響く。
信也はその姿を、ただ凝視した。
信也の、その視線の中で、火具土が、がくがくと全身を震わせる。
そして、その額にある、鶏冠の様な飾りが、短く甲高い音を発てて、開いた。
信也は、火具土のその姿に、「何だ?」と、思わず声を漏らす。
項垂れたままの火具土は、当然その声に応える訳もなく、ただゆっくりとその顔を上げる。
その刹那、火具土のその額から、凄まじい光輝が溢れ、信也の視界は完全に没した。
瞼を閉じて尚、眸を突き刺すような鋭い光が、信也を襲う。
そして次の瞬間、今まで感じたことない震動が、信也の躰を、絶影を、木々を、地面を、山を、空を、この世の凡てを震わせた。
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