雪奈は漆喰の、大きな塀の前で、その影に隠れるように、白狼を屈ませ、じっとその時を待っていた。
待っていたのは勿論、珪弥の、襲撃の合図である。
雪奈は待ちながら、出立前の、珪弥の言葉を思い出していた。
出立直前、珪弥は周りに声を掛けていた。
将としては当然の事である。
勿論、雪奈にもそれは同じで、前回、左肩に傷を負った分、幾分か丁寧ではあった。
「雪奈殿、もう、その…傷は大丈夫であるか?」
白狼の前にいた雪奈に、後方から、珪弥がそう声を掛ける。
それに雪奈は、「はい、もう心配いりません」と、振り返りながら答えた。
実際、傷はそれほど深くはなく、焼いた太刀で傷を塞ぎ、晒し布で固定した今は、多少違和感はあるものの、まったく問題無いと言える。
珪弥は雪奈のその答えに、「それは良かった」と短く言い、少し笑んだ。
松明で照らされた、その笑みが、雪奈の目には、あの時の様に苦しそうに見え、思わず「珪弥様こそ、大丈夫ですか?」と聞いてしまった。
それに珪弥は、笑みを消して少し俯く。
「…正直、判らない」
俯いたまま、そう珪弥は答える。
「僕は今、己の事が良く判らない、あの戦いで僕は死んだはずだ。だが、こうして生きている…」
珪弥はそう言って、己が両掌を見た。
「それに、あの時、僕はあの男を仕留めれた筈だ。だが、僕はたった一言、あの男が言った言葉に、僕はそれを出来なかった。否、それを言われる前から、僕は殺すことを恐れていたんだ…」
珪弥は両の手を握る。
「実妹すら手に掛けておいて、何を今更と思うだろう?僕もそう思うよ、でも僕には出来なかった。それは結局、妹を、サヤを殺した事を、僕は認めていなったんだ。そうただ、あの男にその罪を被せる事で、逃げていたに過ぎない」
顔を上げ、苦しそうな貌で雪奈に向かい、珪弥はそう言う。
珪弥はそこまで言うと、はたと我に返ったように、「すまない雪奈殿…」と言って視線を外して、踵を返した。
そして、そのまま足早に、雪奈の前から去って行く。
去りながら、「今までの言葉は、忘れてくれ」と言う。
雪奈は、その姿に、何も言えなかった。
空が白み始めた頃、雪奈が構える漆喰の塀の先、大門に光の塊がぶつかり、爆ぜた。
轟音を発てて、大門が吹き飛び、その形を消す。
それを合図に、雪奈は白狼を立たせ、眼前の、漆喰の壁を壊し、敷地内へと入る。
向こうの壁でも同じく、仲間の灯火達が、壁を突き崩して、雪崩れ込むのが見えた。
雪奈の傍からも、同じ様に灯火が雪崩れ込む。
そして、大門が破壊された、中央からは、灯火達を引き連れた火具土が入っていった。
山間に兵達の、鬨の声が響く。
敷地内へと入ると、直ぐに、兵と共にあの、弓手を失った巨大な鎧羅と、髑髏の鎧羅が現われた。
雪奈はそれに、白狼を、髑髏の鎧羅に向かって走らせる。
そして、その馬手に、左に下げた太刀を握らせると、鞘から引き抜くのと同時に、真横に薙いだ。
髑髏の鎧羅は、それを、両の手に持った小太刀で、受け止める。
甲高い金属音が響く。
髑髏の鎧羅は、その衝撃を利用し、後方に跳ぶ。
丁度その時である、火具土が、砦の本体である屋敷を、破壊し始めたのは。
どうやら、髑髏の鎧羅はこれに気付き、白狼達から火具土に、その対象を変えた様だ。
しかし、雪奈はこれを逃さず、白狼の弓手を伸ばさせ、飛び退いた髑髏の鎧羅の、脛を掴み、そのまま引き摺り落とした。
髑髏の鎧羅の、頭部が屋敷の端に当たり、その周辺を破壊して地に落ちる。
雪奈は白狼に、髑髏の鎧羅の、脛を掴ませたまま、その弓手を戻しつつ近付く。
そして、その足元まで、髑髏の鎧羅に近付くと、太刀を握った馬手を、振り上げる。
そのまま太刀を振り下ろせば、その切先は、髑髏の鎧羅の、腹部へと刺さり、斃せるだろう。
だが、髑髏の鎧羅もただ、黙って斃される訳はなく、白狼が馬手を振り上げるとほぼ同時に、両の手首の甲から、鎖が付いた、楔形の鉄塊を射出した。
雪奈はそれに対し、白狼を左に倒して、避ける。
だが、髑髏の鎧羅は、その楔形の鉄塊―――――クナイの、後端に繋がった鎖を、白狼の太刀に絡ませた。
そして、髑髏の鎧羅は上体を起こし、両の腕を引く。
白狼はそれに、体勢を崩し、前のめりに倒れる。
雪奈はそれに慌てて、白狼の弓手を、髑髏の鎧羅の、脛から離し、地面にその手を置かせ、体勢を保とうとした。
その隙に、髑髏の鎧羅は立ち上がる。
雪奈も、直ぐさま白狼を立たせた。
二体の鎧羅の隙間は殆どなく、互いに鼻先が摺り合わんとする程の距離だ。
二体の間に、張り詰めた空気が流れる。
雪奈はその最中、ちらりと視線を泳がせて、火具土が居た方を見た。
そこには、もう既に、火具土の姿は消え、屋敷の裏にある洞穴が、その口腔を見せている。
雪奈がその視線を戻した時、髑髏の鎧羅は、両の腕を引き、白狼の馬手に絡ませた鎖を引く。
雪奈はそれに、白狼の両足を踏ん張らせ、体勢を保つ。
そして、雪奈は逆に、その鎖に繋がった、髑髏の鎧羅の、両腕を引いた。
今度は、髑髏の鎧羅が、その体勢を崩す。
だが直ぐに体勢を立て直し、再び両の腕を引く。
二対は、互いにその鎖を引き合い、拮抗する。
その状態で、幾時か経った時、激しい爆音が辺りに響き渡った。
雪奈はそれに、はっと、視線を上げる。
雪奈の眸に映ったのは、岩山を割って出る、巨大な影であった。
珪弥は火具土を操り、烏帽子頭の鎧羅達を薙ぎ倒しながら、その黒い火具土から距離を取る。
そして、その倒した、烏帽子頭の鎧羅を使い、黒い火具土の動きを阻む。
しかし、それをものともせず黒い火具土は、烏帽子頭の鎧羅を踏付けながら、一直線に、火具土へと近付いてくる。
そして、その距離が、後鎧羅ほんの数体程になった時だ、黒い火具土は弓手を伸ばしてきた。
珪弥の前に立つ、数体の烏帽子頭の鎧羅を貫きながら、その手が迫る。
珪弥はそれを、火具土を左に振り、難無く避けさせ、そのまま一回転させて、馬手を伸ばす。
その手は、立ち並ぶ烏帽子頭の、鎧羅の影を縫い、黒い火具土に迫る。
そしてその手は、やけにすんなりと、その黒い火具土の腹部へと突き刺さった。
だが、位置としては、胸の直ぐ下、鳩尾辺りで、裡の人間に影響がある様には見えない。
しかし、黒い火具土の体勢は崩せたようだ。
ぐらりと、その上体を揺らがせる。
珪弥は火具土の、馬手を戻させ、額に神経を集中させた。
その刹那、珪弥の視界を光が占める。
そして再び、珪弥の視界が戻ると、黒い火具土の腹部はごっそりと無くなっていた。
黒い火具土はぐらりと倒れる。
重たい鉄同士が、ぶつかり合う音が響く。
だがしかし、次の瞬間、その黒い鎧羅は、何事も無かった様に立ち上がった。
しかも、その腹部は既に元通りに戻っていたのだ。
珪弥はその光景に、唖然とした貌をする。
そんな珪弥を、嘲笑う様に、信也の哄笑が響く。
「神火、神の火か…。下らんな、この程度の脆弱な力、貴様ごと呑込んでやるわ!」
一頻り笑い声を響かせた黒い火具土は、そう信也の声で言い、烏帽子頭の鎧羅を再び踏付けながら、火具土へと近付く。
珪弥はそれに、火具土を退かせる。
しかし、その姿は一向に小さくならない。
寧ろ、距離を置くにつれ、大きくなっている様に見える。
珪弥は、それを錯覚かと思えたが、どうやら錯覚ではない様だ。
その証拠に、もう既にその頭が、この洞穴の、天井に届かんとしている。
しかも、その躯も大きく変化をし始めていた。
その脚は、巨体となった事に耐えられなかったのか、膝で逆に折れ、白狼と同じような獣脚になっている。
頸と腹部は蛇の様に伸び、両の腕は三叉に分かれ始め、だらりと下がっていた。
そして、その頭部には、鋭角なその角を、更に巨大に伸ばし、鉛色のおどろ髪を垂らした、白い顔が見える。
珪弥はその姿に、思わず戦慄き、火具土の踵を返させて、元来た穴へと走らせた。
そして、洞穴内を走り、表へと再び躍り出る。
その瞬間、爆音が響き、火具土の背にある洞穴と、岩山が崩れた。
珪弥は火具土に、屋敷の瓦礫を踏み越えさせ、敷地内から離れさせる。
そして、珪弥は火具土を走らせながら、「逃げろ!」と、兵達に叫んだ。
敷地内から離れ、山林に入ると、珪弥はそこで火具土の足を、一旦止めさせ、その踵を返させる。
そこで、珪弥が見上げると、巨大な異形となった、あの黒い火具土は、苦しい様な、悲しい様な、歓喜の様なものが混じった、判別のつかない声で叫んだ。
山林を震わせた、その声は、明らかに、信也のものであった。
* * *
信也は己の裡に、己以外のモノが、激しく流れ込む感覚に、苦しみと歓喜を感じた。
その感覚に撃たれる度に、信也の視界は、徐々に高く、広くなってゆく。
やがて、閉塞的な洞穴を突き破り、広い空にその身を露にした。
蒼く、広い空である。
信也は、この空すら、己が裡へと、呑込める様な感覚に、吼えた。
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