終節
鎧姿の紀朝雄は、朝靄の中、岩山と生茂る木々に、不釣合いな、矢鱈と巨大な門を見上げていた。
その紀朝雄の周りには、単眼で白銀色の、丸みのある躯を持った、鎧羅が幾体も並んでいる。
そして、その背後には、左が紫苑、右が藤色の胸部を持ち、右が棘状に立った、左右非対称の顔を持つ、異様な鎧羅があった。
しかも、その馬手は、黄土色とも金色とも違う、妙な色合いの、巨大な両刃の太刀で出来ている。
この鎧羅の名は、天叢雲という。
火具土と同じ、神宝十鎧器の一つ、皇から譲り受け、朝廷が所有する三柱の一つである。
これを朝廷は、藤原千方討伐の為、紀朝雄に貸た。
それは当然、鬼達の存在が、その理由だ。
厳重な警備を誇る、内裏に、首級を置いた鬼。
不遜なりし、強力な不浄の力には、神の力を以て、清め払い、滅する可きであるとしたのだ。
朝靄が少し晴れ始めた頃、紀朝雄が一つ、膝を叩き、床几から立ち上がったその時である、申し合わせた様に、その大門が開いた。
紀朝雄はそれに、小さく声を漏らし、身構える。
次の瞬間、溢れる様に、その開いた門の間から、幾体もの、烏帽子頭の鎧羅が現われた。
独特の音を、幾重にも山間に谺させて、その烏帽子頭の鎧羅の、軍勢が紀朝雄達に迫る。
紀朝雄はそれに、少しだけ身動ぎし、「御剣隊前へ!」と、少し強張った声で、叫んだ。
それに、白銀色の鎧羅―――――御剣達が動き出す。
御剣達は一歩前に出ると、門の前面に居る御剣が、右腰に下げた矢筒から、矢を抜き、手にした弓に掛け、それを構えた。
そして、弦を引き、一斉に矢を放つ。
風切り音をあげて、矢が飛ぶ。
そして、その矢は放物線を描き、次々と烏帽子頭の鎧羅達へと突き刺さる。
烏帽子頭の鎧羅達は、それに混乱した様で、隊列を乱し、方々へとその脚を向けた。
それに、弓矢を持った御剣の背後から、太刀を構えた、他の御剣達が襲い掛かり、交戦を始める。
鎧羅特有の重たい鉄の磨れる音と、鉄同士のぶつかり合う音が混じり、山間に激しく響く。
これに、更に雄々しい鬨の声と、苦しみに満たされた、断末魔の叫びが加わり、山林を煉獄へと変える。
だが、その煉獄の音の中、紀朝雄は、異質な音が近付くのを、感じた。
それは、この山林を占める、この音に良く似ているが、違うものである。
紀朝雄はそれに、少し身震いし、直ぐ様、踵を返して、己が後方にある、天叢雲へと向かった。
天叢雲の、蛇腹状の腹部に手を掛けた紀朝雄は、息を吐くと同時に、一気にその腹を開き、その裡へと転び込む。
そして、正面を向き直し、再び引きあがった蛇腹状の腹を、裡から下げて閉じると、暗いその腹の裡で、手探りで垂れ下がった手繰り糸を、肩、肘、手首と掛け、最後に、指にも掛けつつ、その顔に仮面を着けた。
その刹那、紀朝雄の、視界が開ける。
天叢雲を通して見たのは、先程と変わらぬ、戦の様子。
だが、天叢雲を通し、鋭敏となった、紀朝雄の聴覚には、はっきりとソレが近付いて来るのが、判った。
紀朝雄の、前面に聳える、大門が更に、音を発てて開かれる。
その刹那、大門の裡から、巨大な鎧羅の腕が、紀朝雄の駆る、天叢雲へと伸びて来た。
凄まじいまでの速さで迫る、その腕に対し、紀朝雄は、天叢雲の太刀状の馬手を、振り上げる。
だが、凄まじい速さで迫り来るとは言え、それは未だ、天叢雲に届いてはいない。
太刀の切先が、触れるかどうかも怪しい距離だ。
だが次の瞬間、その巨大な腕は、縦に二つに裂け、綺麗に天叢雲を避ける様に、その両脇へと落ちた。
爆音と土塊、そして、土埃が舞う。
土埃の中、天高く構えた、天叢雲の、太刀状の馬手は、その形を、七つの刃が立った、七支刀へと変えていた。
その光景に、辺りは、今までの、戦の喧騒を嘘のように、静まり返らせ、水を打った様な静寂さをみせる。
その最中、大門を震わせながら、その巨大な腕の、持ち主たる、巨大な鎧羅が現われた。
妙に細く、長い体躯に、獣の爪の様な、猛々しい肩飾り、その顔はのっぺりとしていて、黄色い双眸だけが、爛々と輝いている。
頭部には飾りの、房毛が棚引いていた。
「来たか…」
紀朝雄はその姿に、そう小さく呟き、天叢雲に、その太刀状の馬手を、水平に構えさせた。
そして、そのまま右下方へ、上体を捻らせる。
それに、巨大な鎧羅は残った腕、弓手を持ち上げ、伸ばした。
その刹那、天叢雲は、その姿勢のまま、捻った上体を振り、その太刀状の馬手を振る。
天叢雲が、その太刀状の馬手を、振り切った直後、空気が一瞬止まり、巨大な鎧羅の弓手の掌から、胸部にかけて上下に切断された。
巨大な鎧羅は、そのまま下半身は仰向けに、上半身は前方に崩れ落ちる。
そして、凄まじい音と、土砂が舞い、多くの鎧羅を下敷きにして、その巨大な鎧羅は、止まった。
紀朝雄が、それに一歩、天叢雲を踏み出させた時、突如山間を震わせる。
否、
この世の凡てを、震わせる様な、叫び声が響いた。
轟音を響かせて、胸部から上下に、二つに切断された、その鎧羅が崩れてゆく。
藤原千方は、その光景に、眸を剥いた。
攻めて来た朝廷軍に対し千方は、巨大な、己が鎧羅を出させた訳だが、それはいとも簡単に落とされてしまったのだ。
己の側近でも、尤も手錬れの兵に貸したというのにである。
千方はわなわなと震え、「鬼共はどうした!」と叫んで、踵を返した。
だが、そこには誰も居らず、その千方の叫びが、邸内に響くだけである。
「…これは、どう言う事だ?」
千方は、それに呆然とした声で、誰とも定めぬ問いを漏らす。
千方が呆然とするのも仕方がない。
確かに、朝廷軍に対抗するため、多くの兵を邸内から出した訳だが、己が側近の内、二人は残していた筈である。
だが、振り返って見れば、邸内は千方を残して、誰も居なかった。
千方の、この私邸は、寝所以外は柱で区切られ、各部屋を遮る物は、何も無いに等しい。
寝所自体も、蚊帳屏風で仕切ってあるだけである。
誰か居れば、判る筈だ。
千方は驚きの貌をしたまま、ぐるりと周りを見渡す。
その時である、突如、この世を震わせるほどの、叫び声が響いた。
それに千方は、「何だ、今の声は!?」と、誰に問うでもない声をあげる。
だがその声に、「ずいぶんと激しいですな」と、千方の背後から、誰かが応えた。
千方は、はっとし、踵を返す。
そこに居たのは、豪華な袈裟に身を包んだ、老僧であった。
「時雨殿…」
千方の言葉に、老僧―――――冥院時雨は、穏やかな貌で頷く。
「時雨殿、いったい今の声は、それに他の者達は何処に?」
千方は焦りを押さえた声で、そう時雨に問う。
「あの声は、悪路王。拙僧が戒道信也様にお渡しした鎧羅ですな。それと、他の者は皆、引き払いましたよ」
「なんだと!?」
千方は、時雨のその答えに、荒いだ声で叫んだ。
「どうことだ?鬼共はどうしたのだ?」
荒いだ声で、更に問う千方に、時雨は「最早、貴方は終わりである。という事ですよ」と、鋭利な声で言った。
それに、千方は驚いた貌で、絶句する。
「斯言う拙僧も、お別れを告げに来たのですよ」
絶句する千方に、時雨はそう更に告げると、くるりと踵を返した。
「千方様は良くやっていただきました。現朝廷を揺るがし、多くの人を巻き込んで、この国を混乱に貶められました。しかし、所詮それだけの事」
「それは、どう言う意味だ」
時雨の言葉に、千方はそう言い、太刀を抜く。
「そのままの意味で御座いますよ。貴方は清廉過ぎた、覇を求める帝の器には、とても、とても…」
そう、背を向けたまま、一瞥もくれずに言う時雨に、千方は怒気の篭った眸で、太刀を振った。
だが、その太刀は、敢え無く空を斬る。
それに、千方が小さく、驚きの声を漏らす。
気が付くと、既に時雨の姿は、遥か遠く、邸内の端の方まで移動していた。
それに、千方は呆然とし、だらりと腕を下げ、そのまま太刀を落とす。
「…何者なんだ、お前は?」
戦慄いた声で、千方は問う。
それに時雨は、ちらりと千方を一瞥し、笑んだ。
その時、突然、入り口の戸が破られる音がして、千方はそちらに振り向いた。
粗野な声が響く。
千方はそれに気を取られつつも、視線を戻す。
だが、そこにはもう既に、時雨の姿は無かった。
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