雪奈は、異様な臭いに顔を上げた。
そして、辺りをぐるりと見渡す。
火具土の顔、木々、そして、何も無くなった地平…。
雪奈は絶句した。
あの、異形の鎧羅は勿論、その後ろにあった、藤原千方の砦も、更に後方にあった岩山もその姿を消していた。
正確には、岩山は一部は残っていたものの、屋敷側のその殆どが、抉れている。
地面は、異形の鎧羅が居た、少し後辺りを中心に、擂り鉢状に抉れていた。
雪奈はその光景に、咽喉を鳴らして息を呑む。
それに呼応する様に、雪奈の背後で、鉄の軋む音が響いた。
雪奈は、はっとし、首を捻る。
見れば、その額いっぱいに、脂汗を滲ませた珪弥が、火具土から出てくるところであった。
以前、山中で見た時の様に、苦しい顔をしている。
雪奈は、火具土の弓手から降り、珪弥を見上げた。
珪弥もまた、火具土の腹部から、雪奈の眼前に降りる。
「雪奈殿、何とか終わった様ですね」
珪弥は、肩で息をしながら雪奈にそう言う。
雪奈はそれに、「え、ええ…」と、吃りながら応えた。
それに珪弥が、苦しそうな貌のまま笑んで応える。
しかし次の瞬間、はっとした貌をして、珪弥は視線を雪奈の、後方に飛ばした。
雪奈はそれに、小さく疑符の声を漏らし、振り返る。
振り返ると、擂り鉢状に抉れた、その地面のほぼ中央に、何か、黒いモノが有るのに、気が付いた。
「あれは…」
雪奈はそれに戦慄く。
珪弥は、そんな雪奈を抜き、その前に立つと、「雪奈殿、先に乎岳殿達と合流しててくれないか?」と、微笑しながら言った。
「し、しかし…」
そう、雪奈がその応えに詰まると、珪弥は「頼むよ」と言って、破顔した。
雪奈はそれに、気圧される様に一歩下がる。
そして、「わ、解りました」と、吃りながら答えて、踵を返した。
雪奈は、そのまま歩き出す。
その後方で、珪弥が、擂り鉢状の地面を、滑り降りる音が聞こえた。
珪弥は、雪奈を先に乎岳の元に向かわせ、己は―――おそらく神火によって出来た―――この、擂り鉢状の地面を降る。
火具土から降りた、珪弥の眸は、”それ”を逃さなかった。
擂り鉢状に抉られた、地面のほぼ中央にある、黒い塊。
そして、その直ぐ前に、横たわる様に盛り上がる、人型の土塊を。
珪弥が降り立った、擂り鉢状の地面は、土中に含まれる水分が殆ど抜け、まるで、干からびた砂の様である。
足を踏み出す度に、砂埃が舞い上がった。
珪弥は足早に、その、土塊の前に歩み寄る。
そして、暫くその土塊を凝視と見ると、腰に挿した、太刀を抜いた。
「戒道信也、お前が生きてるのは判っている、謀ろうとするのは止せ」
珪弥は、その土塊に向かい、そう淡々と言う。
珪弥の、その言葉に、人型の、土塊の頭が動き、その裡にある顔を、露にした。
その顔は、猛禽類の様な鋭い眸と、薄い唇、尖った顎を持っていた。
それは、土に塗れているが、紛う事なき、信也の顔である。
信也は、薄い唇を歪めて「流石ですなあ」と、笑んで言った。
「黙れ!」
珪弥は叫ぶ。
信也はそれに、笑みを崩し、眉を顰める。
珪弥が、太刀を握り直す。
信也は、嘲笑する様に言う。
「出来るのかね、珪弥様。一度仕損じた私を、殺すことが?」
珪弥の貌が、強張る。
それに、信也が笑う。
「妹は殺せても、憎んだ者は殺せないか!?」
信也のその言葉に、珪弥は戦慄きながら、顔を逸らす。
信也はそれに、「莫迦め!」と叫びながら、上体を起こし、土の下で馬手に握っていた、太刀を振り上げた。
だが珪弥は、それよりも早く、己が太刀を振る。
そして、起き上がった信也の上体は、途中で止まり、そのまま地面に再び伏すと、鮮血と、丸い塊が地面に飛んだ。
珪弥は、それを見ながら、「僕はお前を憎んでいたんじゃない、哀れんでいたんだ」と言った。
* * *
「お見事です、珪弥様」
太刀を鞘に戻した珪弥に、その背後から声が響いた。
珪弥は、その声に踵を返す。
そこには、尊厳な法衣と、豪華な袈裟を纏った老僧がいた。
「御坊は確か…」
「拙僧は、冥院時雨と申す者で御座います」
珪弥の言葉に、老僧―――――時雨はそう答え、慇懃に頭を下げた。
「そう、確かあの時、戒道信也と共に居た」
珪弥はそう、語尾を強めて言い、太刀を再び抜いた。
時雨はそれに、「覚えていただき、恐悦に御座います。」と、再び慇懃に応える。
「何の用だ?」
珪弥は問いながら、その太刀を時雨に翳す。
「おお、畏ろしいことで」
時雨はゆるりとした声でそう言うと、珪弥の脇をするりと抜けて行った。
珪弥は、時雨が完全に、その後方に行ってから、はっとした貌で踵を返す。
「ま、待て!」
珪弥は、戦慄きながら叫ぶ。
時雨はそれに応えず、黒い塊、あの黒い火具土の前に立った。
そして、その腹部へと、手を伸ばす。
「止めろ、それに触るな!」
珪弥は叫んだ。
だが、時雨はそれすらも無視し、その黒い火具土の腹を開け、その腰に足を掛けると、裡側に手を伸ばす。
そして、小さく何かが外れる音を響かせて、時雨は、黒い火具土から降り立った。
珪弥は、咽喉を鳴らして、息を呑む。
時雨は、その場で踵を返すと、「ご心配ありません、必要なのはこれですから」と言い、手に握ったモノを、珪弥に見せた。
それは、黒い勾玉である。
てらてらと日の光を反射する、掌大の、黒い勾玉であった。
これは、鎧羅を動かすのに必要な碑石、奇御魂である。
それは、珪弥も見たことが無い、黒い色をしていた。
「そ、それは?」
恐る恐る聞く珪弥に、時雨は笑んで、「死反魂に御座います」と応えた。
「ま、まるま?」
「そう、死反魂、死を反すると書いて”まるまがえし”と読みます」
時雨は、珪弥の言葉にそう答えると、大仰に両の手を広げる。
「良いですか、この死反魂は、普通の奇御魂と違い、ただ鎧羅を動かすモノではありませぬ。その名のとおり、この奇御魂は、持つ者の死を、返す効果があるのです」
時雨はそこまで言うと、にやりと笑んだ。
「死、死を返す。だと?」
珪弥は、吃りながら後ずさる。
「そう、あの男、戒道信也とこの鎧羅、悪路王が、火具土が放つ、神火によっても斃れなかったのは、そう言うことです」
時雨はそう言いながら、手を下げると、再びゆるりと珪弥に向かい歩き出した。
珪弥はそれを、ただ呆然と目で追う。
「しかしながら、その力は文字通り、死を返すこと。老いを止めたり、死んだ者を、黄泉還らす事は出来ませぬ」
珪弥は、時雨のその言葉に、びくりと震える。
「つまり、不老不死や、反魂の術には使えぬ訳ですな」
時雨はそう言いながら、擂り鉢状の地面を登る。
珪弥はそこで、はっと気付き、慌てて後を追う。
時雨が向かうのは、火具土の方向だ。
「ま、待て!」
珪弥の声を再び無視し、時雨は登る。
珪弥もそれを追うが、まったく追い付けない。
どう見ても、ゆるりと歩いてる様にしか、見えないと言うのにだ。
そして、追い付けぬまま、とうとう時雨は、火具土の眼前まで来てしまった。
やはり、時雨は、黒い火具土―――――悪路王の時と同じく、その蛇腹状の腹部に手を掛けると、腹を開き、裡へと手を伸ばして何かを外す。
そうして、時雨はまたも、踵を返して、珪弥に手にしたモノを見せた。
今度は白い勾玉である。
「こちらは生玉。火具土の奇御魂で御座います」
「いくたま…」
最早、珪弥は、時雨の言葉を、ただ反芻するだけである。
「そう、生玉、生と玉ですな。つまり、命そのもの、魂のことを指し示しております」
時雨は慇懃にそう言うと、視線をその白い勾玉―――――生玉に向ける。
「こちらは、その名のとおり、魂を与える奇御魂に御座います。そう、動かぬモノに命を与え、死した者を黄泉還らせる事が出来るのです」
珪弥はその言葉に、はっとする。
そして一歩、時雨に近付いた。
だが時雨は、近付く珪弥を制する様に、手にした生玉を翳す。
「しかしながら、肉体を元に戻す力は御座いません。多少の癒しの効果はありますが、肉体を酷く損傷した者や、肉体自体を失った者までも、黄泉還らす事は出来ないのです」
時雨はそう言い放ち、珪弥を見据える。
珪弥はそれに気圧され、躰を引く。
時雨はそれに微笑すると、ゆっくりと両の手に握った、黒と白の勾玉を、胸元で合せた。
そして、「だがしかし、こうすると、どうなるでしょうな?」と言い、再び珪弥を見据える。
珪弥はそれに、戦慄く。
「本来、死反魂と生玉は二つで一つ、否、一つだったモノを、その力ゆえ二つに分けたのです。この、二つ揃った奇御魂を、布都御魂と呼び、本来は剣に嵌めれておりました」
時雨は、戦慄く珪弥に向けそう言うと、一歩近付く。
珪弥は戦慄きながら、硬直している。
「これさえあれば、不老不死すら、思いのままに御座います」
珪弥の眼前で、時雨は慇懃にそう言う。
その、時雨の言葉に珪弥は、少し笑むと、「それが狙いか」と、震える声で言った。
だがしかし、時雨は表情一つ変えずに言う。
「違います」
と。
珪弥はその言葉に、吃驚とする。
「残念ながら珪弥様、それはもう、”間に合って”おります」
そう加えた、時雨の言葉に珪弥は、疑符の声を、小さく漏らす。
「珪弥様、この布都御魂、持つ者に、ただ不老不死を与えるだけでは御座いません。これさえあれば、肉体を失った者も、黄泉還らす事が出来るのですよ」
時雨はそう言うと、笑んだ。
珪弥はそれに、がくがくと震え、その手から太刀を落とした。
時雨は、珪弥のその姿に笑んだまま、数歩下がると、大仰に手を広げて言う。
「例えば、躰が凡て揃っていなくとも、腕の一本、指の一つ、肉の一撮み、爪の一枚、髪の一房、骨の一片、どれでも、黄泉還らせたい者の一部さえあれば宜しいのです」
時雨の言葉に、珪弥は、その貌を真っ青に染める。
時雨は珪弥の、その様子に、一歩近付くと、「そう、珪弥様が持つ、サヤ様の、骨の欠片でも…」と言った。
珪弥は時雨の、その言葉に、がくりと膝を着く。
そして、そのまま項垂れて、両の手を着くと、「お前は一体、何者だ?僕に何をさせたい?」と、震える声で問うた。
時雨は、そんな珪弥の眼前に、肩膝を着く。
「私は、私を生み出した、お母様の想いを叶える為に、ここに居ります」
そう言う、時雨の声が変わる。
珪弥は、その声に、恐る恐る顔を上げた。
「私のお母様は、最愛の夫であり、実兄でもある伴侶に言いました、『あな怨めしや、愛しき彼方。そなたの仕打ち、そなたの、愛すべき我が子等を、日に千人殺める事で、償わせましょう』と」
珪弥はその、時雨の言葉に震えながら、小さく声を漏らして尻餅を着く。
そして、「い、伊弉冉之命」と、震える声で言った。
時雨は笑む。
「私は、お母様の想いを叶える為に、この世に、戦の種を蒔かなくてはなりませぬ」
時雨は笑みながらそう言い、立ち上がる。
そして、両手を広げ、「不老不死と、反魂は良い種となるでしょう」と言った。
珪弥はその姿を、呆然と見つめる。
「ですから珪弥様、貴方様は、なるべく多くの人の眼前で、サヤ様を黄泉還らせて頂きたいのです。より多くの命を奪う、戦を生む為に」
珪弥は時雨の、その言葉に、深く頷いた。
己が拠点、千方窟から逃げた藤原千方は、瀬戸ヶ淵にてその首を刎ねられ、討ち取られた。
その首は、皇に献上されたの後、霧生の天照寺にて、奉納されたと言う。
翌々年、皇、村上天皇は年号を応和に変更。
それと同時に、戦事に限らず、祀り事にも、神器甲鎧羅の使用を禁じた。
また、時同じくして、天皇近衛七士の解散も決定された。
七年後、庚保五年、文月、その理由を語ることなく、村上天皇崩御。
冷泉天皇が第六十二代天皇に即位する。
そして、燎珪弥の行方は、杳として知れなかった。
神鎧鬼譚 了
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