一昼夜焚かれた炎も、櫓がその形を完全に失くすと共に、その勢いを失くしていた。
それは同時に、奈嘉背の遺体も、その形を失ってる。
程なくすると、火の番をしていた男達が、未だ燻ぶる木片に砂を掛け、踏み潰し、火を消していく。
而して、燻ぶる大きい木片は潰し消され、残されたのは煙る灰と、奈嘉背であった遺骸のみとなった。
雪奈はその前に屈むと、少しずつ大きい骨から順に、指で摘みあげる。
遺骸は未だ熱を帯びていて、触れるとじんと指が痛んだ。
雪奈は摘まみあげた遺骸を、小脇に置いた一尺ほどの、正方形の木箱に詰める。
大きいものは、少し力を加えると簡単に折れ、目に見える遺骸は難なくその箱に収まった。
残された細かい骨片は、灰と共に脇に挟んでいた板で掬い取り箱に収める。
程なくして、遺骸はほぼ凡て、その箱に収まった。
雪奈は、箱に収まったその遺骸を凝視と見る。
その貌はやはり、悲しいとも悔しいとも取れない不可思議なものであった。
むしろ、安堵感の様なものが、混じっている様に見える。
暫し凝視した後、雪奈は木箱の横にある蓋を被せ、そのまま胸元に掲げると、すっと立ち上がった。
そして踵を返し、雪奈は視線の先に建つ、二棟の平屋の向こうに視線を飛ばす。
白狼の姿が見えた。
鼻腔を何か甘い香りが衝き、サヤは意識を取り戻した。
だが、意識は覚醒したものの、なぜか躰がやたらと重たく、瞼すらその重さに開くことが出来ない。
それでも意識を集中させることで薄らと、本当に極薄らとだけ、その眸を開く事が出来た。
だが、僅かに開いた瞼の隙間から見る景色は、酷く滲み、靄がかかり、とても己が状況を把握できない。
それでも何とか視線をぐるりと廻すと、行燈のようなものが己の足元に二燈、置いてあるのが確認出来た。
再び甘い香りが香る。
サヤが確認出来たのは、其処までであった。
やはり瞼がやたらと重く、もうその僅かな隙間すら維持することが出来なかったのだ。
サヤの視界は再び、暗い闇の中へと沈む。
闇の中で、徐々にサヤの意識が、再びまどろんで来る。
しかし、サヤは己が状況を考えることに集中し、何とか意識を保とうとした。
サヤは。意識が失くなる直前の事を反芻する。
実兄、珪弥への想いを堪え、竃小屋の裏で泣いた時のことを。
―――あの時、目の前に髑髏が現われ、そして…。
―――そして…。
サヤはそれ以上は思い出せなかった。
ただ、その後に鈍い痛みが、躰を襲ったのは覚えている。
しかし、それだけで意識を失くしたのではないと、サヤは思う。
何故ならサヤは、思い出したその髑髏が、とても恐ろしいと感じたからだ。
甘い香りが三度、鞘の鼻腔を衝く。
不意に、サヤの心中で、火具土の顔がその髑髏と重なった。
そして、そこに兄の、珪弥の顔も…。
それにサヤは心の中で震えた。
その時である、サヤの耳を、意識を震わせる、その声が響いたのは。
「サヤ様、もうお目覚めですかな?」
そうサヤの意識に響いた声は、しわがれた様なそれでいて張りのあるような、そして、くぐもってる様なのに、なぜかはっきりと聞こえて、なんとも喩えようもない不可思議な声であった。
ただその声は、やたらと柔和で、まるでサヤの心を救い上げるような印象を受ける。
「お目覚めならば、そうですな、馬手でも上げていただきましょうかな?」
そうその声が言葉を紡ぐと、サヤの馬手は突然重さを無くし、すうと上がる感覚を感じた。
サヤはそれに困惑する。
だが、困惑しながらも何故か、”そうしなければいけない”気がした。
その思いに、サヤは更に困惑する。
その声が「はい、もうよろしいでございますよ」と優しく言うと、再び重さが戻り、サヤの腕は再び降ろされた。
矛盾しているが、意思はない筈なのに、自らの意思で動かしてる。
そんな気がして、サヤの困惑は不安へと変わり始めた。
―――まさか、わたくしは?
―――わたくしは、この声に?
―――操られている?
そんなサヤの不安感を感じ取った様に、その声は更に言葉を紡ぐ。
「サヤ様、何も心配はいりません。サヤ様の意思はサヤ様のもの。高々言葉一つで、如何ともすることは出来ません」
そう、その声は優しく言う。
すると、また甘い香りがサヤの鼻腔を衝いた。
その言葉にサヤの不安は、幾分か和らいだ。
それを察したように、声は「大丈夫、ええ大丈夫ですよ」と優しく言う。
その言葉にサヤの心は完全に落ち着いた。
それをその声は察し、更に言葉を紡ぐ。
「さて、よろしいですかな?未だ多少の戸惑いがあるところ、まことに申し訳ございませぬが」
柔和な声がサヤの心を揺らす。
「一つ、サヤ様が最も大切なものを、思い浮かべてはいただけないでしょうか?」
あくまで優しげなその声はそう、サヤに問う。
その問いに、サヤの脳裏には当然、兄、珪弥の顔が浮かぶ。
―――兄さま。
「では、それは何でございましょうか?」
不意にその声が問う。
その問いと同時に、再び甘い香りがした。
「兄さま…」
サヤはその問いにそう答え、そして自らに吃驚した。
それは勿論、答える気など無かったからだ。
だがしかし、その思いとは裏腹に口が勝手に答えていた。
再び不安感が芽生える。
そしてサヤの心に、またその声に、不安を癒やしてもらえるのではないかという、期待感が浮かぶ。
だが、声はそれを無視し別の言葉を紡いだ。
「では、その大切な兄上様を、サヤ様はどう思っていらっしゃるのでしょうか?」
その問いに、サヤの心音が高まる。
悟られてはいけないこと、知られてはいけないこと、そして”言ってはいけないこと”。
己がそう決めた、サヤの兄への思いが脳裏に駆ける。
―――わたくしは、
「わたくしは…」
―――兄さまを、
「兄さまを…」
サヤは自らに駆ける思いを反芻しながら、また勝手に口に出していた。
サヤの意識は必死にそれを止めようとする。
しかし、
―――兄さまのことを、
「兄さまのことを…」
―――心から、
「心から・・・」
だが、サヤの口からは次々と、その心と裏腹に言葉が紡がれてゆく。
サヤの心に、不安感が一気に増大する。
もう、
―――お慕いもうしております。
「お慕いもうしております…」
―――兄さまは、
「兄さまは・・・」
止まらぬ己の言葉に、サヤの不安感は頂点に達し、今にもその心が崩れ落ちそうになる。
最早、そんなサヤには、己の言葉を止める事は出来はしなかった。
―――兄さまはわたくしの凡て、
「兄さまはわたくしの凡て…」
―――兄さまが居なくては生きてはいけない。
「兄さまが居なくては生きてはいけない…」
サヤはただ滔々と、
―――兄さま、
「兄さま…」
―――兄さま、
「兄さま…」
己が思いを言葉にしてゆく、
―――愛しております。
「愛しております…」
凡てを詳らかに。
そこまで語り、サヤは泣いた。
涙が仰向けに寝た、サヤの目尻から溢れ、耳を伝い落ちるのを感じる。
嗚咽こそ出なかったが、涙が後から後から溢れるのを感じた。
また、甘い香りがサヤの鼻を擽る。
「サヤ様、何もご心配はございません。兄上様も、サヤ様のことを愛しておられますよ」
香りと共に声がそう、サヤの心を震わす。
「さあ、その眸をお開けください。兄上様がサヤ様をお待ちでございます」
サヤはその言葉に、恐る恐る眸を開けた。
暈けた光が、開かれたサヤの眸を撃つ。
眩しさに眩み視線を泳がすと、行燈の火に照らされた珪弥の顔が、サヤを覗き込んでいるのが見えた。
サヤは思わず両の腕を伸ばす。
両の腕を珪弥の首へと絡ませるサヤを、珪弥は優しく抱き、柔和な声で喋る。
「大丈夫、私もサヤのことを愛しているよ」
サヤの心に、そう珪弥の言葉が深く響く。
もう、不安感は無い。
そんなサヤの髪を撫で、珪弥は更に言葉を続ける。
「だから、だから”私の言う事だけに”従って欲しい」
サヤの耳元で発せられた、その珪弥の言葉に、サヤは涙を流しながら「はい…」と答える。
サヤは甘い香りの中、得も言われぬ幸福感に堕ちていった。
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