信也は板戸の前に座していた。
 目の前の部屋の中からは、甘い香りが僅かに漏れてくる。
 暫くすると、音もなく僅かに板戸が開かれて、裡から口元を隠した時雨が、少し顔を覗かせた。
 そして、「さあ信也様、どうぞ中に」と言い、信也を部屋の裡へと招く。
 信也が入ったその部屋は、半間ほどの狭く四角い部屋で、全体が煙っており、まるで靄がかかったようであった。
 部屋の四隅には行燈が立ち、中央には夜具が敷かれ、その上に少女―――――燎サヤが横たわっている。
 サヤが横たわる夜具の四隅にも行燈が立っており、部屋は狭さもあり、かなり明るかった。
 だが、サヤの足元と頭頂部に香炉が置かれ、ここから絶え間なく煙が焚かれていて、明るいのだがやはり靄がかかったようで、全体が見え悪い感じを受ける。
 そして、どうやら部屋の前に座していた時から漏れ香っていた、甘い臭いの正体はこの煙のようだ。
 しかも、これほど派手に焚いているので、部屋の中は煙たさと甘い香りで顔を背けたくなる程である。
「し、時雨殿これは?」
 信也は堪らなくなって、鼻を掌で押さえながら、サヤの傍らに佇む時雨に聞いた。
「信也様これはですな、芥子、ですな」
 信也の問いにそう答えた時雨に、「芥子?」と鸚鵡返しに信也は更に聞いた。
「はい、まあ早急に傀儡の術を施行しなければならない故、今回は少々薬に頼りましたのでございますよ。まあ、深く息をしなければ、多少は問題ありませぬ、ご安心めされ」
 時雨は笑みながらそう答え、「ではこちらへ」とサヤの枕元へと信也を促した。
 信也は静かに、促されたとおりにサヤの枕元に座する。
 時雨はそれを見ると、「では」と一声言い、静かに息を吸った。 
「サヤ様、何もご心配はございません。兄上様も、サヤ様のことを愛しておられますよ」
 時雨は一際大きく良く透る声でそう、横たわるサヤに向けて言った。
 信也はサヤの顔を覗きこむ。
 横たわるサヤは、ただ静かに止め処もなく涙を流していた。
 ただ、時雨の言葉を聞いて、その表情が幾分か和らいでいるのが解る。
「さて、信也様よろしいですかな?お言葉は覚えておいででしょうか?」
 時雨が先程と変わり、声を低くして、そう信也に聞く。
 信也はその問いに無言で頷いて返すと、そっと身を乗り出して、サヤの眼前に顔が来るようにする。
 それを見ると、時雨はまた一息吐き、言葉を紡いだ。
「さあ、その眸をお開けください。兄上様がサヤ様をお待ちでございます」
 良く透る声が室内を震わすと、サヤがゆくっりとその両の眸を開いた。
 サヤの眸に、信也の顔が写る。
 信也が写ったサヤの眸は、焦点が幾分暈けてる様で視線が定まっていないのが解った。
 おそらく、信也を見ているが、実際は見ていない状態なのであろう。
 サヤは今、脳裏にある想像と、信也の姿を重ねているのだ。
 サヤは涙を流しながらも歓喜の貌をし、その両腕を信也の首へと回してきた。
 信也はそれを抱きとめると、すっと息を吸い、覚えた言葉を発する。
「大丈夫、私もサヤのことを愛しているよ」
 あくまで優しく、言い含めるように。
 信也は少し髪を撫でる。
「だから、だから私の言う事だけに従って欲しい」
 そしてはっきりと、良く聞こえるように。
 サヤは、信也のその言葉に、涙を流しながらただ「はい…」と、か細く答える。
 サヤの貌は、幸福感に満ちていた。

「これにて、傀儡の儀礼は終わりでございます」
 板戸の前で、時雨はそう言い、深々と頭を垂れた。
 この板戸の向こうには、燎サヤが未だ眠っている。
「後は、目覚めるのを待つだけでございます」
 頭を上げながらそう言う時雨に、信也は問う。
「この程度のことで本当に大丈夫なのだろうな?」
「ええ、術は完全にかかっております。ただ…」
 時雨は信也の問いにそう答えるも、その語尾を濁した。
「ただ、なんだと?」
 当然ながら、信也はそこに引っかかり、不信な貌をする。
「ええ、今回、早急に術を施すために薬を多めに使用しました故」
 時雨は少し表情を曇らせてそう答える。
 信也は更に聞く。
「それが?」
「はい、後遺症のようなものが出るかもしれませんな」
 問いに少し言いよどむような声で答える時雨に、信也は更に問う。
「それはどういうものだ?」
「こればかりはどうにも、予測が立ちませぬ、ただ、如何なる事があっても、術が解けることは罷りならぬことは保障致しますよ」     
 そう、曖昧に答えながらも、語尾だけは堂々と言った。
 信也は少し考えるも、「まあ良いだろう」と時雨の言葉に応える。
「では、覚えておいて気を付けることにしよう」
 そう付け加え、信也はその場を去る。
 まだ、鼻の奥に甘い香りが残っていた。

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