乎岳は愛馬、茜号を駆り、山道を下っていた。
 夕闇は過ぎ去り、半月の光だけが先を照らしている。
 乎岳は馬上から首を捻り、後方を返り見た。
 後方では、片腕を失くした、巨大な鎧羅が見える。
 突如、陣を襲ってきたこの鎧羅、珪弥が神火で機先を返したことで、乎岳たちは陣内から逃げ果せた。
 逃げ出すことで、この場から引き離す、珪弥の選択は正しい。
 特に井戸を破壊される前に、逃げ出せたのは大きかった。
 貯蓄小屋と寝起きをする場所を失ったが、一番確保が難しい、飲み水を得れる井戸さえあれば、またこの様な、大きな陣を張り直せれる。
 それに、見上げるほど大きな鎧羅だ、斃すには火具土の神火しかないだろう。
 神火の飛び火で、陣内がどれほどの影響を受けるかも、憂慮すべきだ。
 乎岳は再び前を向くと、耳を欹てた。
 あの巨大な鎧羅は、思惑通りに後を追い、今、攻撃をしている。
 先ほどから降り注ぐ、大きな鉄の鋲は、どうやら、あの鎧羅が降らしてるらしい。
 ただ、この攻撃は、数は多いが、命中率は大した事はない。
 感覚的効果は絶大でも、実害は大した事は無い様である。
 乎岳は、冷静にそう判断し、降り落ちる、鋲の落下音に集中したのだ。
 しかし、乎岳が耳を欹てた時には、殆ど落下音も、衝突音も聞こえなくなっていた。
 乎岳は訝しげに、辺りを凝眸する。
 すると、前方より、迫る様に地鳴りが聞こえた。
 乎岳は前方を凝視する。                             
 乎岳は、兵の鎧羅達―――――灯火の合間から、半月の光を反射する、透明な壁が迫るのを見た。


 雪奈は己の周りに誰も居ないのに気付き、白狼の歩を緩め、その首を捻って見渡した。
 どうやら、夢中になって、速く走りすぎてしまったらしい。
 かなり後方に、火具土や灯火達が見える。
 そして、その遥か後方では未だ、あの巨大な鎧羅の影も見えた。
 雪奈は一旦、歩を止め、待つかどうか、逡巡しながら白狼の首を戻す。
 その時である。
 雪奈は、躰を震わす、地鳴りに気付いた。
 雪奈はそれに思わず、白狼の歩を止め、地鳴りの方を凝眸する。
 その雪奈の眸に、半月の光を反射させ、透明な壁が迫るのが映った。
 雪奈が「え?」と、気の抜けた声を漏らす。
 その刹那、雪奈の躰は、白狼ごと妙な浮遊感に襲われ、反転した。
「うわああああ?」
 無様にも、叫び声をあげた雪奈の躰は、何かに包まれ、その声を止められた。
 呼吸も出来ない。
 そこでやっと、雪奈は、己の躰を包み込んだものが、水であることに気付いた。    
 雪奈は苦しさにもがく。
 もがきながら大量の息を吐き出し、代わりに水が容赦なく雪奈の喉を打った。
 徐々に意識が薄れてゆく。
 雪奈の視界が白んだ瞬間、突如、雪奈の躰は落下感に襲われた。
 そして、鈍い衝撃が、雪奈の背筋を襲う。
 その衝撃で、薄れ始めた雪奈の意識は、それを取り戻した。
 雪奈はそのまま、大量の水を吐き出して噎せる。
 気が付くと、息も出来るようになっていた。
 噎せながら、雪奈は視線を廻す。
 その雪奈の目に、火具土の影が映った。
 火具土は、雪奈―――白狼―――を見下ろしている。
 雪奈は、息を呑むと、やっと白狼を立ち上がらせた。
 鉄の軋む音が響く。
 立ち上がった雪奈の視界には、濃い靄が映る。
 そこでやっと雪奈は、火具土が襲ってきた水の壁を、神火で全て消し去ったことに気付いた。
「大丈夫であるか、雪奈殿」
 火具土―――――珪弥は再び、そう雪奈に声をかける。
 雪奈はそれに「あ、はい」と、生返事を返した。
「では雪奈殿、相手は神通力のある鎧羅、おそらく噂の鬼であろう。巨大な鎧羅で機先を制し、逃げるものは水でそれを押し返す。そして、鈍足な巨大鎧羅の元に再び戻し、挟撃を加えるのが手だろう」
 珪弥は雪奈の返事を聞くと、そこまで一度に言った。
 そして火具土は顔を、白狼から前方に移す。
「そこで雪奈殿は、白狼の足の速さを生かし、先行して水を操る敵を斃していただきたい。水の壁は、また僕が神火で消しますゆえ」
 そう珪弥の声で言う火具土を、雪奈は凝視し、一つ息を吐くと「判りました」と言った。
 雪奈は火具土の脇を抜け、再び白狼を走らせる。
 雪奈は両の指に、力を込めた。
 それの呼応して白狼は更に速く駆け、徐々に前傾姿勢になる。
 白狼は遂に、両の腕を着き、その名の如く、獣のように両の手と足で地面を力強く蹴り駆けた。
 半月の光の下、土塊を巻き上げ、雪奈と白狼は駆ける。
 その白狼に、再び透明な水の壁が、半月の光を煌かせて、迫った。
 しかし、雪奈はもう恐れない。
 雪奈と白狼は、決してぶれることなく、真直ぐに走る。
 水の壁が白狼の鼻先に触れた刹那、閃光が奔り、それは弾ける様に消えた。
 更に深い靄が、雪奈の周りを包む。
 しかし、雪奈はそれにも決して動じない。
 土を巻き上げ、靄を裂き、駆ける、駆ける、駆ける。
 雪奈は白狼と共に、ただ地を駆けた。
 最早それは、駆けると言うよりも、跳ぶ様である。
 やがて雪奈の視界に、薄らと白い影が映った。
 その影は瞬く間に、実像を結ぶほど大きくなり、雪奈の目に、その姿をはっきりと見せる。
 その影は、腕が長く足が短い、ずんぐりとした姿で、巨大な角の生えた単眼の三角頭を持ち、その両肩はまるで、大きく口を開いた魚の様であった。
 腹部は蛇腹状、大きく長い腕は節がある。
 その影は、やはり鎧羅であった。
 おそらく、水の壁を生み出していたのも、これであろう。
 雪奈はそれを屹と睨むと、白狼の躯を大きく撓ませて、跳んだ。
 ずんぐりとしたその鎧羅は、白狼のその姿に一瞬、身動ぎ、踵を返した。
 離れようとしてるらしい。
 その体型に似合わず、そのずんぐりとした鎧羅は機敏で、長い腕を生かして白狼の着地位置から素早く逃げる。
 だが、白狼の方が遥かに速く、その動きに追い着き、充分な確信を持って、雪奈は白狼の馬手を伸ばした。
 白狼の腕が、ずんぐりとしたその鎧羅の、立派な角のある頭を掴むと、雪奈は渾身の力を込め、白狼の腕を振り上げる。
 そして、そのまま踵を返し、ずんぐりとした鎧羅を掴んだままの馬手を、勢い良く振り抜いた。
 ずんぐりとした鎧羅の、白い影が、虚空に舞い、瞬く間に実像を失う。
 その影は、下方から伸びた閃光により、真っ二つに引き裂かれた。
 火具土の神火である。
 そして、二つになったその影は、やっと山道に降りてきた巨大な鎧羅の足下へと消えていった。
 雪奈はその光景を、肩で息をしながら、呆然と見詰めている。
 辺りに気配はもうなく、残るはあの、巨大な鎧羅だと、雪奈は漠然と考えた。
 雪奈は一つ息を吐き、少し肩の力を抜いた、その時である。
 突如、雪奈の背後―――白狼の背中―――で、鉄同士が強く当たり、擦れる音が響いた。
 それに雪奈は、思わず「え?」と、抜けた声を漏らす。
 その刹那、雪奈の肩を、激痛が襲った。

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