夜が明ける。
 その形を、完全に消し去った山。
 否、”山があった地”から、朝日が昇って行く。
 見ると、その山であった地まで、抉る様な径が続いていた。
 火具土は、その光を受けて佇んでいる。
 白狼から降りた雪奈は、恐る恐るその火具土に近付く。
 その後から半歩下がり、乎岳も連なる。
 後数歩と言うところで、突然、立ち尽くしていた火具土が、腰を落とした。
 まるで、尻餅を着く格好で、突如、その腰を落とした火具土に、少したじろぐも、雪奈は一つ息を吐いて、再び近付く。
 足の間から、蛇腹状の腹部に割って入るように、近付き、その腹部に手を掛ける。
 そして、そのまま力を込めて上に持ち上げ、その腹部を開いた。
 鉄が擦れる音が、雪奈の耳に響く。
 顕になった火具土の、その裡を、朝日が照らす。
 そして、朝日に照らされた火具土の裡で、雪奈の眸に映ったのは、仮面を着け、項垂れたまま動かない、珪弥の姿であった。
「珪弥様?」
 雪奈は息を呑み、恐る恐るその名を呼んだ。
 その声に応えるように、珪弥はゆるりと動き、手繰り糸と、仮面を取った。
 そして、その顔を上げ、「雪奈殿」と、枯れた様な声で言う。
 それに、雪奈は身を乗り出して、「大丈夫ですか?」と言い、手を伸ばす。
 珪弥はその姿に、少し笑む。
 雪奈は、その笑みがあまりにも苦しそうで、思わず伸ばした手を引いていた。


 珪弥は小岩の上に座し、変わり果てた、その山を凝眸した。
 その山は、以前ならば、その頂は見上げる程だった筈だ。
 だが今は、眼下に僅かに、裾野を残すだけである。
 珪弥はその風景を見ながら、馬手を着物の裾に入れ、己が胸元を触った。
 その指先に、傷痕特有の、皮膚の盛り上がりを感じる。
 珪弥の躰には肩から、ぐるりと一周する様に、傷痕が背中まで走っていた。
 珪弥は胸元から手を抜くと、瞼を閉じて眉間に皺を寄せる。
 珪弥はあの夜、己は死んだ筈だと、判っていた。
 だがしかし、傷痕はあれど、こうして生きている。
 己が身に、一体何が起こったのか?
 想像だにない事が、起きたのは間違いがないだろう。
 珪弥はあの夜の事を反芻する。
 信也の言葉に、心を穿たれ、耐え切れず叫んだ瞬間。
 確かに鉄の拉げる音と、鉄塊が迫り、己が躰を貫くのを、珪弥は見た筈だ。
 だが、気が付けば夜は明け、眼前に絶影の姿はなく、ただ抉り取られた様な半円状の溝が、径の様に遥か彼方まで続いている光景であった。
 ―――何が、
 ―――何が、起こった?
 珪弥は瞼を開け、戦慄きながら、己が両の掌を見る。
 その時である。
「珪弥様!」
 そう呼ぶ、雪奈の声が背後で響いた。
 珪弥はその声に、はっとし、その場で立ち上がると、踵を返して雪奈を見下ろす。
「いかがした、雪奈殿?」
 珪弥はその雪奈に向かって、そう言い、小岩から飛び降りた。
「それが…」
 雪奈は珪弥の問いにそう答えると、ちらりと、陣内に向かって目をやった。
 珪弥もそれに、つられる様に、視線を向ける。
 そこには何時もと変わらぬ板塀と、木門があるだけであった。 
「内で何か?」
 珪弥がそう、合点がいかない貌で、雪奈に問うと、その刹那、木門が開いた。
 木の軋む音が響く。
 そして、その開かれた木門から、淡い藤色の束帯を纏った、狐目の男が現われた。
 その男の馬手には、乎岳の姿がある。
「乎岳殿、そちらは?」
 珪弥はそれに気が付くと、呆けた貌をする雪奈の脇から一歩出、そう問うた。
 乎岳は複雑な貌をして、ちらりとその狐目の男に目をやると、一歩前に出て、珪弥に近付く。
「この方は、紀朝雄様にございます」
 珪弥の問いにそう答え、更に近付いた。
 乎岳の顔が、珪弥の眼前にくる。
 そして、乎岳はそのまま、珪弥の顔にそっと、己が顔を寄せると、「朝廷の遣いにございます」と、小さく加えた。

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