信也はその姿に恐怖した。
 蒼い躰に、赤黒い焔を染めた全身。
 額には黄土色に似た鶏冠があり、そこから伸びた黒いおどろ髪、その下の顔は、起伏が少ない白い顔をしている。
 そして、その顔には、亀裂の様な紅い眸が燃えていた。
 それはゆらりと動き、軋む音をあげて、信也を見る。
 その刹那、信也の視界を閃光で染めた。
 信也はその光景に、叫び声を上げて、跳ね起きる。
 夜具を跳ね飛ばし、信也は肩を上下させて項垂れると、弓手で己が額を押さえた。
 その額には、じっとりと脂汗が滲んでいる。
「如何されましたかな、信也様?」
 そう言いながら、板戸を開け、時雨が入ってきた。
 そして、手燭を翳し、音もなく擦り寄る。
 橙色の光が、信也の顔を照らす。
 信也はそれをちらりと見て、時雨の問いに答えようと口を開いたが、「火具土のことですかな?」と、時雨が先にその胸中を指した。
「い、いや…」 
 信也はそれに、吃りながら否定をするが、図星であるのは明らかだ。
 時雨はその信也を見て、「まあよろしいでしょう」と言いながら、立ち上がり踵を返す。
 そして、「実はそんな信也様に、御渡ししたいモノがございます」と背を向けたまま言った。
「それは?」
 信也は立ち上がりながらそう言うと、時雨の肩を掴む。
 それに、時雨はちらりと信也を見ると、「宜しければ、拙僧に付いて来て下され」と言って、歩き出した。
 信也から、橙色の光が遠ざかる。
 信也の掴んだ手は、何時の間にか、その肩からするりと抜けていた。

「これは?」
 信也は身動ぎながら、”それ”に注視した。
 複数の行燈で照らされた洞穴内は、橙色に光って、そこに居並ぶ、烏帽子の様な頭を持った、鎧羅を照らしている。
 信也が総べる砦は、前面は崖を背にした、屋根の高いただの屋敷であるが、その直ぐ後には貯蔵庫兼、連絡、脱出路としても機能する洞穴があった。
 最下層部に近い、擂り鉢状に広い穴は、手を加えられ、鎧羅の保管場所としても機能している。
 信也はそこで、”それ”を見た。
「これはまるで、黒い…」
「火具土の様でございましょう?」
 手燭を持ったままの時雨が、そう信也の背後から、その言葉に被せ言う。
 信也の眼前にある”それ”は、漆黒の躯に、蒼白い起伏の少ない顔を持ち、その顔には亀裂のような紅い眸が見える。
 そして頭から鉛色のおどろ髪と、額から後頭部まで縦に、黄土色の様な色をした、幾本もの鋭角な角が並んでいた。
 全身の微妙な差異を除けば、体躯の色以外、その姿は火具土に酷似している。
 信也はそれを凝視しながら、「この鎧羅は一体?」と、振り返りもせず時雨に問う。
「これは悪路王ですな」
 その問いに、時雨がそう答えると、そこで信也は振り返り「悪路王?」と、鸚鵡返しに聞いた。
「はい、百年前、坂上田村麻呂が討ち取った、鬼の名にございます」
「鬼の名…」
 信也は、時雨の言葉にそう返し、再びその鎧羅―――――悪路王を仰ぎ見る。
「左様、奥陸一帯を荒し回った、それはそれは凄まじい悪鬼だったと伝えられております」
 時雨はそう言い、信也の脇を抜け、悪路王の前まで歩むと、踵を返し大仰に手を広げ、「この鎧羅ならば、火具土も恐るるに足らず」と言い、信也を見て笑む。
 そして、「さあ信也様、お進み下さい」そう加えて、信也を促す様に、前を空けた。
 信也は、ただそれに惑わされる様に、ふらふらと歩む。
 そして、悪路王の腹部に手を掛け、その顔を見上げた信也は、その紅い眸に映る、己が姿を見た。


 珪弥は、丸太を椅子代わりに、狐目の男―――――紀朝雄と、差し向かいで対した。
 珪弥の後には、乎岳と雪奈が立ち、二人とも腰に太刀を携えている。
 紀朝雄の後にも、従者が一人控えているが、こちらは武器の類は見えない。
 帷子姿の山伏の様な、山歩きがし易い格好である。
 その所為で、眼前の、紀朝雄の束帯姿がやけに浮いて見えた。
「すみませぬな、床几も用意できませぬで、なんせ、数日前に鎧羅に襲われましてな」
 太刀に手を掛けたまま、背後で乎岳がそう言う。
「いや、お気遣いは結構です、こちらも大変な時にお邪魔したようで、申し訳ありませぬな」
 紀朝雄は乎岳の言葉にそう応えると、「ただ、機会としては良かったかと」そう付け加える。
「良かったとは?」
「はい、貴方達が、千方討伐に出て行く前で、良かったと」
 乎岳の問いに、紀朝雄は微笑ながらそう答え、「誰も居なければ、お話しも出来ませぬゆえ」と加える。
「確かに。では、そのお話とは?」
 乎岳が紀朝雄のその言葉を受け、そう厳しく問う。
 それに紀朝雄は、「はあ、これは厳しい」と、笑みながら応えた。
 そして、紀朝雄は袖の裾を直し、ゆったりと手を前に構える。
「ではですな、まず本題から」
 狐目を少し開き、紀朝雄は真剣な貌をする。
「燎珪弥様には、藤原千方への進軍を、即刻取り止めて頂きたい」
 紀朝雄の、その言葉に、「それは!?」と雪奈と乎岳が異口同音に言う。
「はい、判っております。珪弥様が叔父、戒道信一郎に家督を奪われ、それを正式に取り戻す為には、御父上の仇、藤原千方の首が必要なことを」
 紀朝雄はそう一息で言うと、「それを了解した上で、それでも手を退いて頂きたい」と、加えて深々と頭を下げた。
「いや、それは…」
 そう乎岳が、紀朝雄の言葉に窮していると、それに代わる様に、珪弥は深く息を吐いた。
「朝廷の意向ですか?」
 珪弥は難しい貌でそう問う。
 それは、話を聞いていた誰しもが、気付いていたことである。
 だが、それを言ってしまえば、決定的な、己等ではどうしようもない事を、言われるに、違いないと判っていたのだ。
 しかし、珪弥はそれを問うた。
 それは、このまま先送りしても、仕方がないと思ったに他ならない。
 そして、紀朝雄は顔を伏したまま、その決定的な答えを言う。
「左様にございます」
 と。

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